大林宣彦が小津安二郎に見ていた映画人の凄み 戦争を描かないことが戦争を描く手法だった
嫌だと言ったら国家犯罪人になりますから、受け入れるしかないということで、断念して戦地に赴かれたわけです。
それでも小津さんは、そこで軍の命令どおり戦意高揚映画を撮るわけにはいかないと、ワンカットも撮らない道を選ばれました。ワンカットも撮らないのが小津さんのフィロソフィーだったということです。
映画は撮るためだけにフィロソフィーが発揮されると考えるのは間違いです。撮らないことでもフィロソフィーが発揮できるというのが表現の世界の奥深いところです。
小津さんは日本の国民だからということで戦地までは行きました。それでも撮るか撮らないかという部分では自分を曲げず、国家犯罪人になってでも映画を撮らない道を選ばれたのです。
シンガポールで終戦を迎えましたが、小津さんは引き揚げ船で復員することを選びませんでした。
新藤兼人さんの遺作になった『一枚のハガキ』という映画があります。この映画は、くじ引きによって、戦地に行くのではなく、掃除部隊に配属された中年兵士の話で、新藤さん自身の体験がもとになっています。
新藤さんが99歳になってつくられた映画です。戦争に行かずに生き延びた新藤さんには、99歳になるまで消えない慚愧(ざんき)があり、そうした思いを伝えたものだったのです。
誰かが残るなら、自分が残る
小津さんがシンガポールに残られたのは、新藤さんの思いにも通じるところがあったのではないかと想像されます。誰かが残るなら自分が残る、というような気持ちがあったのではないかと思うのです。
ただ、このときに小津さんはシンガポールに残ったことで、アメリカから送られてきていた映画をずいぶん観ることができたといいます。
その中にはたとえば1939年につくられた『風と共に去りぬ』もあったというから幸運でした。『風と共に去りぬ』などは2度とつくれないような名作です。
全編カラーの長編映画は1935年からつくられるようになりましたが、1939年あたりは映画の歴史の中でも最も輝いていた時期にあたります。このときには他にも『市民ケーン』や『嵐が丘』など、100本くらいの映画を観られたといいます。
素晴らしい映画ばかりだったからこそ、「こんな映画をつくっていた国と戦争したのでは負けるのは当たり前だ」と思ったそうです。
そんな小津さんはアメリカ映画の大ファンでもあります。日本の監督は昔からみんなアメリカ映画が大好きなんです。アメリカ映画をいかに上手にまねするかが監督の能力になっていた時代もあったほどです。