大林宣彦が小津安二郎に見ていた映画人の凄み 戦争を描かないことが戦争を描く手法だった
この映画は私も映画館で観ましたが、映画館ではヤジが飛びました。
昭和33年の公開でした。戦争が終わって、やっと平和になって幸せを感じられるようになっているときに「なんという時代錯誤のセリフを言わせるんだ!」という反応になったわけです。
「戦争中がよかったなんていうノスタルジーの映画をつくっているようでは小津はもうダメだ。映画をつくるのなんてやめちまえ!」
そんなヤジが飛んでいたことを今でもよく覚えています。
しかし小津さんは、戦争中はよかったなどということが言いたかったわけではなく、戦争が何をもたらしたかを描こうとしたのです。
”戦争が終わって日本人は幸せになりましたか? 家族がバラバラになって、老いても子どもや孫と暮らせないように寂しくなったのではないですか? 平和になったといっても、家族はバラバラになっている。これが本当に私たち日本人が求めた幸せなんでしょうか?”というメッセージです。
小津さんは戦争で生き残った人間の責務として、亡くなるときまでそういうことを伝えていらっしゃいました。
ヌーヴェルヴァーグと戦争
フランスでは終戦後、「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる人たちが映画を撮るようになりました。
彼らがつくる映画には実験的なものが多く、恋愛や家族などを描いていましたが、その背後にもやはり戦争があったといえます。
映画人は運動家でも政治家でもないので、リアルに戦争は描きません。ヌーヴェルヴァーグの監督たちもそうでした。そうはしないで、あくまで自分たちの美学の中で「二度と戦争なんか繰り返してはいけない」という意志を示していたのです。
そういうやり方は、彼らの先輩にあたるアプレゲール、いわゆる戦後派に学んでいたのだともいえます。
ヌーヴェルヴァーグの監督たちがつくった映画が公開された頃に青春時代を過ごしていたぼくたちは、こうした映画から大変な影響を受けています。
小津さんとヌーヴェルヴァーグの関係も深かったといえます。
フランソワ・トリュフォーというヌーヴェルヴァーグの巨匠がいます。この人は小津さんの映画を何本も観られたそうです。そこでトリュフォーはあぜんとしました。小津さんの作品では、映画の文法を無視したような撮り方がされていたからです。
トリュフォーはおそらく「日本の映画監督はアマチュアなのか!?」と驚いたはずです。それでもトリュフォーは笑ってすませるのではなく、いろいろと考えたのでしょう。トリュフォーもまた映画の文法を破るようなことをしました。