伝染病で26年以上も隔離された女の数奇な人生 腸チフス菌を持ち続けたメアリーが受けた差別

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メアリーはその後、何度かのハードルを乗り越える必要はあったものの、1910年2月にようやく解放されることになる。「今後は料理をしない」という誓約書を書かされたうえで。

しかし結論から言えば、そののち数年のブランクを経て、彼女はまた賄い婦としての仕事を始めたのだった。もちろん、それが正しい判断ではなかったことは事実だろう。だが彼女にとってみれば、そもそも最初から納得のいかない話だったのだ。そもそも一方的な理由で、長らく隔離されてきたのだから。

そればかりか、得意な仕事を奪われて生きていくことを強制されたとすれば、さまざまな思いが頭をよぎったとしても不思議ではない。

ところが、その選択が彼女をまた追い込むことになった。1915年1月から2月にかけ、ニューヨークのスローン婦人科病院で腸チフスの集団発生が起こったのだ。

2度目の隔離は23年と半年以上

かくして彼女は逮捕され、再びノース・ブラザー島に連れていかれた。そして、この2度目の滞在は実に23年と半年以上、彼女の死まで続くことになる。

メアリーが約束を破ったことは事実だ。そのため再発見されたとき、世間はメアリーに対して厳しい目を向けた。しかし、ほかのキャリアとの兼ね合いで彼女の取り扱いのことを考えてみるなら、どうしても次の問いかけをしたい気持ちになると著者は記している。

いったい、メアリーは、一九一五年から亡くなるときまで、二三年以上も隔離され続ける必要が本当にあったのだろうか、と。(104ページより)

メアリーが2度目に拘束された1915年には、最初に隔離された1907年から1908年ごろにくらべ、腸チフスによる死亡率は2分の1から3分の1に減少していた。下水処理や飲料水システムの完備、牛乳の効果的殺菌法の開発、細菌学自体の進歩などの複合的な要因が絡み、腸チフスは減少していたのだ。

だが、彼女だけが“責任”を強いられた。

やはりそこには、メアリーの社会的条件が反映されていたと考えざるをえないわけである。アイルランド系移民、カトリック、貧しい賄い婦、女性、独身などのすべてが複雑に重なり合い、メアリー個人の人生を不利にするよう働いていたということだ。

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