幻のドリンク「ネーポン」を甦らせた41歳の執念 一度は消えたが試作に試作を重ねて再現した

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「専門学校辞めて、やっぱり大学行きたいなあと思いました。高校時代は理数系の大学行こうと考えてたんですけど、今さら勉強するのも嫌だなあと思って。小学校のときから絵を描くのが好きだったので、美術大学に進学しようと決めました」

そうして、自宅から大阪にある美術大学専門の予備校に通った。

「予備校に通っているときは、同級生にピカソの偉大さを語る人がいて、それを聞いてまた影響されていました。

『俺はピカソになるぞ!!』

って張り切りました」

予備校に入学した年の入試は、自信がなかったので受験しなかった。そしてその翌年は受験したが残念ながら不合格だった。

そしてその翌年、21歳の年に京都造形芸術大学に合格した。

八尾市の実家から電車で大学に通い始めた。

「大学にはまじめに通っていました。単位も問題なく取っていたんですが、その頃バブル経済崩壊の影響でどんどん実家が貧乏になっていったんです」

2年目で学費を払うことができなくなり、奨学金を借りることもできず、結局大学を中退することになった。

「22~23歳で宙ぶらりんな感じになってしまいました。それまで両親には学費を払ってもらっていたので、全然文句を言う筋合いではないですけどね。それでなんとなくアルバイトを始めました」

本屋や電気店の前で、客にセールスをする仕事を始めた。

「最初はアルバイト情報誌に『男女ペアでできる仕事』とか書いてあったので、楽しそうだな~と思って始めたんです。

たいしてやる気なかったんですけど、そのときたまたま『金持ち父さん貧乏父さん』(筑摩書房)という本を読んでまた影響されて、がぜんやる気が出て頑張って営業成績を上げました」

その後、働いていた会社の先輩に誘われて、一般家庭をターゲットにした、飛び込みのセールスマンの仕事についた。

その会社ではセールスがうまくいかなくても月給20万円はもらえる仕事だった。

「20万円もらえるのはいいんですが、ただ契約が取れないと居心地が悪くなるんですよね。後輩から

『そんなんじゃ契約取れないっすよ』

とかバカにされて、それで嫌になって辞めてしまいました」

水商売では稼げずに怪しげな会社へ

その後、水商売の呼び込みのアルバイトに入った。しかしそこでは全然稼げなかった。思わず客で来ていたアパレル会社の社長に

「全然稼げないんですわ」

と愚痴った。すると社長は、

「うちに来たら稼げるで」

と誘ってくれた。

「向こうは冗談だったのかもしれないですけど、すぐにバイトを辞めてその社長の会社へ行きました。

中国で安く服を作って、それをインターネットで売る会社でした。アパレル会社と言えば聞こえがいいですけど、……まあインチキくさい会社ではありました。

僕らは、服をインターネットで出品して売る仕事をしました。そこで月30万円以上とまずまず稼げるようになりました」

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