「大目に見る」上司ほど無能である悲しい現実 リーダーこそ「セルフィッシュ」であれ
大目に見るということは、自分で自分に言い聞かせてきた妥協の表れであることが多い。
その対象は、感じの悪い同僚の存在かもしれないし、指示を出せば嫌な顔をして動かない部下かもしれない。人間関係の中で自分が嫌々担っている役割かもしれない。あるいは、精神衛生上あまりよくない状況に自分の身を置いているのかもしれない。
でも考えてみれば、子どもの頃はそこまで物事を大目に見てなどいなかったはずだ。ところが成長するにつれ、私たちは「セルフィッシュ(自分本位)になるな」と教えられる。そうすると、物事を大目に見る術(つまり、受け入れる、耐える、順番を待つ、分別を持つ、物事のよい面を見る、妥協する……といったこと)を身に付けざるをえない、ということになる。
こうしたスキルを叩きこまれたばかりに、私たちは大目に見ることにかけては一級品、の状態になってしまった。
私たちは、自分の感情を抑えるように教え込まれる。泣きわめくのは大人のすることではない、というわけだ。
かといって、それが行きすぎて自己否定に結びついてしまうのもやはりよくない。そこで、物事を大目に見る癖をなくしつつ、自分の希望をスムーズかつ効果的に、そして周りとの関係を壊さないようにうまく主張するスキルを身に付けることが必要になる。あなたがリーダーであればなおのこと。小さなほころび、小さな違和感を放置しておくことで、組織のほころびや大事に至るケースは、枚挙にいとまがない。
大目に見ることと寛容であることは、どこが違うのか?
ところで、「寛容であること」と「大目に見ること」を混同している人がいる。
「いっさい大目に見ないこと」「寛容でないこと」は違う。寛容さに欠けるとは、ほかの人の意見や権利、大切にしているものを認めようとしないこと。
「いっさい大目にみないこと」とは、ほかの人の行動や何かの状況が自分にとって害となる場合には、それをよしとしないということである。
物事を大目に見ることは、本質的には自分を麻痺させることと同じである。例えば、美しい音楽をかけているとしよう。そこへ突然、車のクラクションや人の喋り声などがして、あたりが騒がしくなったら、あなたはその耳障りな音をとにかく締め出そうとするだろう。一方では音楽を聴こうとし、もう一方では騒音を聞かないようにすると、自分のエネルギーも分散してしまう。すると何が起こるか。
音楽の音程の一部には騒音の周波数と重なるところもあるので、その部分をシャットアウトすると、それだけ音楽自体も聞き逃してしまうことになるのだ。
人生もそれと同じことである。何かを大目に見ると、その不快さを感じなくて済むようにと心が閉じてしまい、その分幸せも感じられなくなってしまう。違和感をキャッチするセンサーも働かなくなってしまう。