なぜ劇映画を手がけたか
――是枝さんや諏訪さんはドキュメンタリーから劇映画に移行してきた人たちですが、今回、久保田監督が劇映画を手掛けるにあたり、「よし、じゃあ俺も」といった思いがあったのでしょうか?
もちろんそういった刺激がゼロだったわけではありません。ただ、僕はテレビのドキュメンタリーをベースにずっとやってきたので、そのベースを崩すつもりはないのです。ドキュメンタリーだからできる面白いことはたくさんありますから。しかし、その反面、ドキュメンタリーではできないことがある、ということも実感しています。そういったことに関しては、ドキュメンタリーという形にこだわらずに、フィクションとして、演劇や映画、テレビドラマという形を考えてもいい。ある時期から、表現手段をどの形でするかについては、間口を広げて考えたほうがいいのかな、と思っていたので、そのひとつの結果が劇映画という形になったわけなのです。
――この映画は福島でロケが行われ、おそらく多くの福島の方がかかわったと思うのですが、彼らからこういうことを伝えてほしいといった思いを感じましたか?
直接、こういうことを伝えてほしいといったことはなかったのですが、彼らからいろいろと話を聞いていく中で、こういう思いをきちんと盛り込めていけたらいいなと思ったことはありました。たとえば当時、山では、表面の土を5センチ剝がしていく除染作業をやっていました。ただ、山の場合、腐葉土がたまって、1センチのいい土になるまでに100年かかるそうなんです。つまり5センチの土を戻すためには500年かかる。そこで彼らは「500年が剝がされていくんだよ」という言い方をしていました。
この剝がした土をどうするのだろう、といったことは気になっていました。至る所に膨大な量の剝がした土が置きっぱなしになっていましたから。でも、彼らのその一言を聞いて、そんなことじゃないのだという気持ちになりました。ほかにもそういうことはたくさんあるのですが、彼らのこうした気持ちをきちんと伝えられればいいなと思いました。
――この映画で映されている福島の景色は、本当にきれいなものです。画面だけ見れば、本当に普通の風景であるがゆえに、逆説的に伝わるものがあるのではと思いました。
そのとおりです。やはり現地に行かれると、皆さんが感じられることですが、本当に景色が美しいのです。「なのになぜ?」といった気持ちに絶対になる。逆に言うと、そこがいちばん怖いところだという。そこは見ている人にもストレートに伝えたいと思っていたので、美しい自然は美しく、そこに生きている人間の姿は、そこで生きている人間の姿としてきちんととらえたいという思いで撮りました。
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