巨人で「3軍」常連の男が野球に見つけた生き方 24歳で戦力外通告、女子野球新チーム監督に
2011年の秋、高橋は巨人にドラフト5位で指名される。
それまでの野球人生は、順調すぎるほどに順調だった。小学校1年生で野球を始めたときから、夢はプロ野球選手。好きなチームは巨人。
中学時代にシニアリーグで全国大会に出場。2009年に新潟県の強豪・日本文理高に入学すると、1年の春から控え投手としてベンチに入り、夏の甲子園で準優勝を経験する。その後、高い運動能力をかわれて野手に転向。3年生のときは4番を任され、春、夏と連続で甲子園に出場した。
身長185センチの恵まれた体格にして、スピードは抜群。長打力も、守備力も備えていた高橋は将来の1番バッター候補として期待されていた。
しかし、プロは想像以上に厳しかった。高橋は「プロの壁」を、こう振り返る。
「スピード感についていけませんでしたね。その思いは今でも心に残っています。ピッチャーの球のスピードだけじゃない。練習のときのボール回し、シートノックのテンポや打球のスピード。基本的なところから、そのスピードについていけなかった」
1年目、高橋は右手の人差し指を骨折してしまう。
「これもスピードについていけなかったからですよ。守備練習のとき、グローブをはめていない右手にノックの球が当たったんです。うまく避けることができなかった」
プロ1年目は2軍で3試合の出場にとどまった。2年目は42試合に出場するも、打率は1割7分。そして2年目のオフ、支配下選手を外れ、育成選手に降格されてしまう。
何かしないと残れない世界
2013年のオフに育成選手となった高橋は、生き残るためにチャレンジを繰り返す。俊足をいかすために左打者に転向したこともあった。
「左をやったりしたので、努力していたと思う人もいるかもしれませんね。でもプロの世界で生き残るためには、(内野手ながら捕手にも挑戦した)寺内崇幸さんや、(ピッチャー以外のポジションを守れて、スイッチヒッターだった)木村拓也さんのような、本当のオールラウンダーにならないとダメ。育成の3年目、コーチだった後藤孝志さんと、このことはじっくり話をしたことがあります」
「遠くに打球を飛ばせないし、エラーはするし」と、当時の自分を思い返す高橋。しかし唯一、走力は周囲に引けをとらなかった。足でプロの世界を生きる。そう決心した。
「何かしないと残れない世界ですから」
のちに妻となる志桜里(しおり)さんと出会ったのは、育成選手として、生き残りをかけていた時期だった。知人の食事会で知り合い、すぐに交際が始まる。野球が大好きで、何度も2軍の試合まで応援に来てくれた彼女のために、結果を出さなければいけない。