団体交渉では、残業代の支払いや時給のアップを要求。ケンジさんは別の病院に異動することで、時給1000円になった。ただ、そこでの仕事は、洗濯ではなく、リネン類を所定の場所に補充すること。ケンジさんに積極的に仕事の手順を教えてくれる人はおらず、何より、ほかの同僚らはリネン類が足りないときなどは、互いに融通しあっていたのだが、その輪の中に、ケンジさんが入れてもらえることは決してなかった。
要はいじめである。「リネンが足りないと苦情を言われるのは、俺が圧倒的に多くてね。時給は上がったけど、なんかつまんなくなっちゃって」。ケンジさんは結局、会社を辞めた。このとき、100万円以上あった未払い残業代のうち、30万円ほどが支払われたという。
郵便局の下請け会社で働いていた
ケンジさんは高校卒業後、工業製品を製造する会社に入社。経営者側の事情でその会社が閉鎖した後は、ポスト内の郵便物を回収する、郵便局の下請け会社で働いた。
思えば、郵政の職場には、全逓(全逓信従業員組合、現在のJP労組)という労働組合があり、ケンジさんも組合員だったという。団体交渉などにも参加したが、気が付いたら、ついこの間まで労組の委員長や書記長だった人が、会社の管理職になっていた。先輩に聞けば、局内の管理職のほとんどが労組の幹部出身だというではないか。団交による成果はないも同然。「これじゃ、ダメだなと思ったよ」とケンジさんは言う。
郵政の下請け会社は、忙しいわりに待遇はいまひとつ。別の会社に転職したものの、バブル景気の崩壊を機に、一方的に待遇が切り下げられたので、ここも辞めた。ケンジさんが正社員だったのはここまで。その後、さまざまなアルバイトで生計を立てていたところ、社会保険に加入できると聞き、リネンサプライ業務の請負会社に入ったのだという。
給与は、バブル時代の一時期を除き、正社員時代も、アルバイト時代もいずれも13万円ほど。「貯金もゼロだし、こんな稼ぎじゃ結婚もできなかったよ」とケンジさん。
それにしても、日本社会には、なぜ、そして、いつごろから、“労働組合フォビア”ともいえる空気がはびこるようになったのだろう。
私が取材で知り合ったある介護職員は、労働組合に入って団体交渉を行った途端、職場で村八分に遭った。シーツ交換や入浴介助など、協力し合わなければならない仕事が多い介護の現場で、仲間外れはきつい。団交の結果、時給は上がり、同僚らはその恩恵を受けたが、その職員は退職するまで、つまはじきにされ続けた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら