小説家直伝「名作」を味わい尽くす意外な読み方 「こころ」をスロー・リーディングしてみる

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主人公は、父と兄とが、「名もない人、何もしていない人」など無価値であり、「先生」の名に値しないという考えで一致している点を指摘している。その一方で、違いも述べている。「父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間に限る」と考えているのだという。

こうした「父が〜、兄は〜」という書き方は、漢文ではおなじみの対句的表現である。こういう箇所では、2つの主語をきちんと押さえておくと、何が対比されているかがよく分かる。

父と兄の対立する「先生」観

ここでの相違点は、父にとっては、能力があれば、それにふさわしい仕事をするのが当然だ=「先生」は無能だ、と理解されているのに対し、兄は、能力があっても、それにふさわしい仕事をしない人間がいる=「先生」は無能である以上につまらん人間だ、と考えられている点である。

父の「常識」と、兄の「常識」との相違の背景は、世代である。ここで読者は、この世代間のものの考え方の差もまた、この小説の大きなテーマなのではないかと推論することができる。

いずれにせよ、この父と兄との「先生」観は、主人公のそれと対立する。つまり、作者はここで、「先生」に対する読者の疑問を、二世代の社会の声を反映させる形で、あえて父と兄とにそれぞれ振り分けて、代表させているのである。

そうして考えてゆくと、実際のところ、有名人でも何でもなく、「先生」と呼ばれているこの人物について、私たちは、その言葉自体に注目せざるをえない。「先生」という敬称は、一般には特定の職業(教師、政治家、医者等……)と結び付いて考えられる。しかし、原義は文字どおり、「先に生まれた人」(『広辞苑』)であり、対義語は「後生」である。

言葉の意味は重層的である。おやと思ったときには、必ず辞書を引こう。速読は、一般的な「先生」という語の意味を無批判に前提とするため、こうした点を見逃しがちである。

この『こころ』という小説は、1914(大正3)年に発表され、まさしく明治から大正に遷る時期を舞台として、その明治の終わりとともに自殺する人間を描いている。つまり、ここでいう「先生」というのは、これから大正時代を生きようとする「後生」である主人公にとって、その前の時代の精神を体現していた人物としての「先生」である。

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