小説家直伝「名作」を味わい尽くす意外な読み方 「こころ」をスロー・リーディングしてみる

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しかし、教科書などではしばしば省略されてしまう〈上〉、〈中〉がムダに存在しているわけでは、もちろん、ない。それらは当然に、〈下〉を準備する重要な意味を持っている。ここでは、とりわけ、注目されることの少ない〈中〉の中から〈十五〉を取り上げてみた。既読の人は、この第2部の全体における意義などを考えながら、再読してもらいたい。

全体における意義を考えながら読んでみる

「先生先生というのはいったい誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問しておきながら、すぐ他の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟聞いても解らないと云うのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰う必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしいところが出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間に限ると云った風の口吻を洩らした。
 「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ噓だ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。
 「それでもその人のお蔭で地位ができればまあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事を云った。先生から明瞭な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早吞み込みでみんなにそう吹聴してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
 父が変な黄色いものを嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」と云った母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は、「聞いたか」と云った。それは医者が帰り際に兄に向かって云った事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
 「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気はないか」と兄が私を顧みた。
 私は何とも答えなかった。
 「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまた云った。兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。 
 「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」
 「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私が云った。
 「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口に斥けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充ち満ちていた。
 「お前が厭なら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
 「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後について、こんな風に語り合った。
 夏目漱石『こころ』(ちくま文庫『夏目漱石全集〈8〉』139~141ページ)

さて、一読して、どんな印象を持っただろうか? 明治の文豪漱石というので敬して遠ざけていた人は、意外と読みやすいという感想ではないだろうか?

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