新作とは異なり、古典落語は、お客の多くもストーリーをわかったうえで聞くから安心感がある。前述の「猫と金魚」は新作落語だが、演者も多く「擬古典」とでも言うべき名品だ。
「僕は前座のときに教わったんですよね。みんながやりたいネタなんで、でも難しい噺だとは僕も知っていた。
10回ぐらいやって、これはもう俺にはできないと思ってもうずっとしなかったら、お弟子さんが入って、いきなり“師匠、来月『猫と金魚』教えてください”“バカやろう、お前。そんなの20年以上やってねえネタ急にできるわけねえだろう、ひと月待ってろ”って言って。
原稿を書き直してギャグを入れたんですよ。6カ所ぐらい、いろいろ自分なりの。そしたらそれがドンピシャに客にはまったんです。だから前やってた人よりグッと面白くなったんです」
自分でペンを入れることができる新作派ならではの工夫だろう。筆者は古今亭寿輔の古典落語も何本か聞いたが、予想以上に「いい」のである。
「死神」は、明治の大師匠三遊亭圓朝がグリム童話から翻案して作った落語だ。六代目三遊亭圓生、五代目立川談志など、古典落語の本格派が手がける名作だが、古今亭寿輔の「死神」は、趣がかなり違う。古典派の演じる「死神」は、不気味で重たい印象に仕上げるのが普通だ。人の生殺与奪を握る力がある死神が登場するのだから、当然ではあるが、話全体が陰鬱な印象になるのはやむをえないところだ。
しかし寿輔の「死神」は、妖気は漂うがほかの演者よりも軽い。飄々として無責任な印象さえある。主人公の男も気楽で軽くて、軽やかな印象のままストーリーが展開するのだ。「落ち」はオーソドックスだが、ほかの師匠の「死神」よりも軽くて、しかも今っぽいセンスのようなものが横溢している。一言で言えば「洒落た逸品」になっているのだ。
「『死神』は50歳を過ぎてからやり始めました。この年になってからですから、誰からも教わらなくて、自分で工夫しながら作りました。ほかの方のはかなり重いですが、私はあっさり、明るく演っています。
話に聞けば、今は爆笑ネタの『野ざらし』なんかでも、昔は仏教から来た噺で重たくて、つまらなかったといいます。それを後世の落語家が手を加えて変えて、あんなにいい『野ざらし』になった。だから落語って、みんなそうやって変わっていくものなんですね」
ハイリスクハイリターンの高座
今、落語を生で聞く場所は、大きく分けて2つある。
1つは「ホール落語」。立派なホールが会場だ。出演者の数は少なくあらかじめ「演目」が発表されている。1本当たりの口演時間も30分以上。お客はお目当ての落語家の噺をじっくりと堪能する。
もう1つは「寄席」。毎日昼前から夜まで興行がある。演者の数は多いが、1人当たりの持ち時間は15分前後。何を演るかも事前には決まっていない。演者はほかの演者との兼ね合いや、お客の様子を見てその場で演目を決める。団体客が客席で弁当を広げたりもする。落ち着かない雰囲気のときもある。
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