フェイスブック上の「教会」で語られる絶望の話 9割の弱音を吞みこむ生活で、1割が爆発する

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私たちは10年前のあのフランス料理店にいた頃から、何も変わっていない。ただ、結婚し、出産し、母になった。許された選択をしたにすぎず、罰を受けるような悪いことは何1つしていない。にもかかわらず、独身時代に必死に勝ち取ってきた自由や、積み上げてきたキャリアは、産後、一瞬で砂のように手のひらからこぼれてなくなる。

社会からは、母親なのだからそれが当然という視線を向けられるばかりで、嘆いたり、不満を言うことは許されない。

誰かにわざわざ言われなくたって、その声はとっくに内在化されている。仕事で子どものお迎えが遅くなった日。すっかり日が暮れた人気のない道を、子どもと2人、手をつないでとぼとぼと歩くとき。今日の晩ごはんはコンビニで買って帰ろう、と子どもの前で努めて明るく言うとき。都度心の中で、顔も知らない誰かが、母親である私に同じ言葉をかけ続ける。

“子どもが可哀想”

夫たちはこのささやきを、1度でも聞いたことがあるのだろうか。

責めたいわけではない。ただ、同じように親になってほしいだけ。それを阻む社会に、同じように疑問を持ってほしいだけなのだ。

「教会」が必要な理由

愛し合って結婚したはずの特別な相手と当たり前に言葉を交わし、当たり前に理解し合うことが、どうしてこんなに難しくなってしまうんだろう。つらいことをつらい、苦しいことを苦しいと、どんなに冷静に伝えようとしても、不思議なほど相手には届かない。

だから、ふとしたときにこぼれそうになる弱音の9割をぐっとのみ込む。のみ込んで、なかったことにする。ところが、のみ込み損ねた残りの1割がついぽろっと口をついて出るとき、どうしたことかその言葉は、意図せずして強い攻撃性をまとってしまうのだ。

「疲れた」「つらい」「寂しい」「苦しい」もとはそのくらいシンプルで毒気のないものだったはずのなのに、世に放たれた瞬間に相手を深く傷つける、鋭利な刃物に化けてしまうのだ。

そんなこと、本当は望んでなんかいない。大切な人を思いもよらない言葉で傷つけたりなんかしたくない。できることなら、ちゃんと大切にしたい。

だからこそ私たちには、私たちのどうしようもない弱さを認め、受け入れてくれる「教会」が必要なのだ。

紫原 明子 エッセイスト

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しはら あきこ / Akiko Shihara

1982年、福岡県生まれ。男女2人の子を持つシングルマザー。 個人ブログ「手の中で膨らむ」が話題となり執筆活動を本格化。BLOGOS、クロワッサン オンライン、AMなどにて寄稿、連載。その他「ウーマンエキサイト」にて「WEラブ赤ちゃん」プロジェクト発案など多彩な活動を行っている。著書に『家族無計画』(朝日出版社)、『りこんのこども』(マガジンハウス)がある。

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