ラグビー日本「半数が海外勢」になった深い経緯

「トンガ勢」はこうして日本にやってきた

実際に生活を始めても、言葉と食の問題という、海外で暮らす誰もが経験する壁にぶちあたった。ホームシックにかかり、ソロバン塾の温泉旅行に参加した際に寂しさのあまり2階から飛び降りようともしたという。文化の違いに苦しみながらも、ピッチでは異次元のプレーを見せ活躍した。ノフォムリの存在は、日本とトンガとの架け橋になり、後のトンガ出身選手たちの道しるべになったという意味でも大きい。

ノフォムリの数年後に来日し、大東文化大学、三洋電機と同じコースをたどったシナリ・ラトゥも「彼がいなければ、こんなにトンガ人選手が活躍できたかわからないですよ」と語っている。来日してからの苦労もラトゥの場合は少なかった。すっとなじむことができたという。

「大東大のみんなも、ウェルカムっていう感じで受け入れてくれたしね。言葉が分からないのに部屋に遊びにきてくれたり、一緒に飲んだりしたね。でも、それはたぶん、ムーリー(ノフォムリの愛称)のおかげ。きっとパイオニアとして、私たちが知らない苦労をしたんだと思いますよ。私たちも本当にサポートしてもらいました」(P28)

ちなみにノフォムリは、2015年ワールドカップ日本代表の中心メンバーだったホラニ龍コリニアシとも関係が深い。血縁関係があり(ノフォムリはホラニの伯父にあたる)、ホラニが留学した埼玉工業大学深谷高等学校(現・正智深谷高等学校)でトンガ人留学生の選抜を担当したのがノフォムリだった。ホラニ自身はトンガ時代にラグビーをしていなかったが、子供の頃からノフォムリのプレーに憧れていたという。

高校ラグビー初の留学生

次に同書から取り上げたいのは、“高校ラグビー初の留学生”ブレンデン・ニールソン(現:ニールソン武蓮傳)である。

ブレンデンは1990年代初頭に、ニュージーランドから東北の仙台育英高校に留学してきた。ブレンデンと同世代で山形中央高校ラグビー部に所属していた著者は、東北大会で実際にプレーを目の当たりにし衝撃を受けたという。

そのシーンはいまだに覚えている。
土埃が舞い上がるグラウンドで、試合がはじまっていた。ボールを持つ一人の選手に目が釘付けになった。
イエローを基調にしたジャージの仙台育英7番。ヘッドキャップからはみ出した金色の長髪をなびかせて、頭から飛び込んでタックルしてきた相手を片手でハンドオフ(手のひらで相手を突き飛ばすプレー)していた。
ガイジンだ……と思った。東北の片田舎と、外国人選手。そのミスマッチを受け入れるまで少し時間がかかったような気がする。(P94~95)

本場ニュージーランド仕込みのセンスあふれるプレーもさることながら、まだ在日外国人の数自体が今よりずっと少ない時代、その外見の「見慣れなさ」も大きかった。

ブレンデンは仙台育英高校時代は、同校2度目の花園出場の原動力として活躍、流通経済大学を経て、NECグリーンロケッツやコカ・コーラウェストジャパンなどいくつかのチームを渡り歩いた。日本代表も経験している。

本書の記述を読む限り、来日当時ブレンデンが置かれていた状況は、他の海外出身選手と比べてもかなりタフなものだったのではないか。先のノフォムリの場合は“ソロバン留学”という形でいわば国のお墨付きであったし、同郷の仲間もいた。

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