斜陽の「銭湯」で大胆に集客する44歳の経営手腕 外の世界で別の仕事にも就き、家業に戻った

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原さんのひいおじいさん、ひいおばあさんは、東京都内で3軒の銭湯を経営していた。

店舗は阿佐ヶ谷、巣鴨、動坂にあったが、第2次世界大戦の空襲で3軒とも焼けてしまった。その際、ある人の資金提供もあり、なんとか建て直して営業を再開した。しかし、その人の資金繰りが苦しくなったのに加えて、ひいおじいさんが連帯保証人になっていたため、3軒すべてをなくしてしまった。

「今まで風呂屋しかやってこなかったんだから、ほかに何をしていいかわからない。これからも風呂屋をやろう」

という話になり、西ヶ原にある銭湯物件を購入して引っ越してきた。

そこが現在の殿上湯である。

もう、50年以上前の話だ。

「僕は風呂屋で生まれて、ずっと風呂屋で育ってきましたね。ただ、だから特別にどうだってことはなかったですけど。ほかの商売やってる子と変わらない感じだったと思います」

幼稚園の頃から、大人が作ったルールに反発していた

原さんは小さい頃から、反発心の強い子だったという。

「幼稚園の頃から、大人たちが作ったルールというのに反発してましたね。お遊戯とか見世物になってるみたいで大嫌いでした。歌を歌ったらお菓子もらえるって、俺たちは動物じゃねえぞ!! って。ひねくれていたんですね(笑)」

小学生の頃から勉強の成績はあまりよくなく、先生に

「どこがわからないんだ?」

と聞かれても

「どこがわからないんだか、わからない」

というくらい、苦手だった。

「当時は今以上に学歴社会だったから

『偏差値の悪い学校に行ったら未来はない!!』

みたいなこと学校や塾でよく言われましたね。僕はひねくれていたんで

『お前らが思ってもみない形で未来を作ってやる』

と思ってました」

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