「厳格なしつけ主義」が日本の親子を不幸にする 服装や頭髪指導をやめた校長の信念
ありがちなのは、教育の本質としてさして重要ではないことを無意味にクローズアップして、大人が「問題をつくる」ことです。そもそも問題として取り上げなければ、問題だという意識さえ生まれないのです。理屈をこねて、意識させることによって、本来教えたい上位概念――たとえば人権上の大切なことや、社会に出て役に立つこと――が、教えられなければ本末転倒です。
「服装や頭髪の乱れは心の乱れ」
「規律がないと学校が機能しない」
といった考え方はその典型。大人が勝手につくった問題にすぎないと私は考えています。その考えに基づいて、服装や頭髪が、結果として自由になっただけであって、自由をめざして学校改革をしたわけではないのです。
「ルールを守らせる」のに必死
私が若い教員だった頃の話をしましょう。
当時から、子どもたちを縛り付ける無意味な校則には疑問を持っていました。教育の本質から見ればどうでもいい些末なことに、教員たちが躍起になっていたからです。その結果、貴重な子どもたちの時間も労力も奪われていると感じたのです。
衝撃的だったのが、東京都の公立中学校で行われていた「置き勉禁止」の校則。
土曜日の授業が終わると生徒たちは勉強道具一式を自宅に持って帰らないといけないルールが存在していました。
「勉強道具を持って帰らないと週末に勉強できない。まず持って帰ることをルール化しよう」。
それが学校側の理屈です。
そもそも勉強したくないならしなくてもいいのではないか。百歩譲って自宅学習を課すにしても、「すべて」の教材を持ち帰る必要がどこにあるのか。理解できませんでした。
「自分に必要な科目だけ持ち帰ればいいんじゃないですか? 結構重たいですよ」
同僚の教師に反論しても、若手教員の言葉など聞く耳をもってもらえません。しかもその指導は極端で、土曜日に生徒が下校したあと担任は教室をチェックするようルール化されていました。置きっぱなしの勉強道具を見つけたら段ボールに入れ、月曜の朝に生徒の前にドン!と置く。「置き勉」をした生徒を前に呼び出してみんなの前で徹底して叱るのです。子どもたちはその場しのぎで謝りますが、当然納得しません。
すると何が起きるか。学校の共有部に教材を隠す子どもが出てきて、今度はそれを教員が探し出す。躍起になって置き勉を探す先生たちの姿を眺めながら、私はあまりのくだらなさにあきれてしまいました。
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