実は怖くない!「人口減少社会」の「希望の未来」 世界を「人間の顔をした」デザインに変える
まず冒頭では、「2050年、日本は持続可能か?」という問題設定の下、3つの観点ー(1)財政あるいは世代間継承性、(2)格差拡大と人口、(3)コミュニティないし「つながり」ーに関する持続可能性と、「幸福度」といった主観的な要素も視野に入れたAI技術による将来シミュレーションが提示される。
ここから明らかにされたのは、日本全体の持続可能性を図っていくうえで、「都市集中」か「地方分散」かが、最も本質的な分岐点であるということだ。
今から8〜10年後の間に両シナリオの分岐が発生するが、持続可能性の観点から望ましいのは「地方分散型」。また、約17〜20年後まで継続的な政策実行が必要で、その間に地域内の経済循環が十分に機能しなければ、持続不能となる可能性があるという。
つまり、日本は「地方分散型」を前提に、不断の努力を続けるべきだというのである。地方から上京し、都内に住むわたしには少し耳の痛い話である。
しかし、広井氏の描く今後の地方都市の「デザイン」は、魅力的にみえ、むしろ都会暮らしに疲れた心が癒やされ、満たされるかもしれないとも思えた。ドイツのニュルンベルク郊外にあるエアランゲンのような、緑豊かで空間が広く、適度なにぎわいと、ゆるやかなコミュニティのつながりが感じられる、「人間の顔をした」地方都市が例示されているからである。
ドイツは人口約8000万人で、面積は日本とほぼ同じ。2100年に日本の人口が約8000万人で定常化すると予測されていることと照らし合わせると、人口がある程度減少しても日本は国としてやっていけることが実証されているといえる。ただし、そこに必要なのは、生活の基盤として効果的に機能し、人間のからだに心地よくフィットする社会の「デザイン」だと広井氏はいう。
わたしたちはポスト資本主義社会を求めている
地方出身の人なら経験があると思うが、田舎のしがらみに嫌気がさし、強い憧れを抱いて上京したうちは、それなりに都会の暮らしを謳歌する(中世当時の本来の意味とは異なるが、「都市の空気は自由にする」とはよくいったものだ)。
だが生産者として働き始めると、とにかく毎日大量のタスク処理が求められ、そのめまぐるしさに気後れし、心を乱される日も増える。
また、新しいモデル(流行)を切れ目なくつくり続け、自己否定を繰り返すことで自己増殖していく消費社会(あるいはそこでみせられる「こうでなければ人でない」といわんばかりの広告が象徴する情報社会)というものに、都会の消費者として付き合っても、たまに振り回されすぎて生きづらい。
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