横浜、IR誘致で露呈した何とも厳しい「懐事情」 大都市ほど財政難に陥りやすい構造
しかも、横浜市ではその後、アメリカ軍の接収が広範に、長く続いた。横浜市内で接収された土地面積は全国の6割以上に及んでおり、とくに港町横浜の生命線・港湾施設では約9割が接収されている。
1952年からは接収解除が始まったが、中心部・関内地区の接収が解除されたのは1953年になってから。しかも、土地の境界や権利関係がわからず、道路もなくなった状態での返還のため、実際に建物が建つまでにはさらに時間がかかった。
1960年には雑草が繁茂する空地「関内牧場」の草刈りを市民が陳情したという記録があるそうだが、その時点で東京ではすでに前回の東京五輪が決まり、急速な変化が始まっている。東京はもちろん、他都市に比べても横浜の復興は大幅に出遅れたのである。市内にはいまだに4カ所のアメリカ軍施設が残されてもおり、多くの人は忘れているかもしれないが、横浜でも戦後はまだ終わっていないのである。
人口増にインフラが追いつかない状態
さて、長引く接収で何が起こったか。経済の空洞化である。戦災のために横浜を離れた企業や住民たちが戻るに戻れず、戦前の横浜経済を支えていた企業のかなりの部分が東京などに流出してしまったのだ。
しかも、そこに東京からの人口移動が始まる。先に発展を始めた東京では不足する住宅を求め、多くの人たちが横浜に流入、丘陵を削って住宅が作られる時代が始まったのだ。稼いでくれる企業は戻ってこないのに、ライフラインや学校などを整備するために支出が必要な寝る人だけが入ってくるわけで、これでは域内で経済が回らない。だとしたら公共事業に依存せざるをえないというのが以降の横浜市の基本的なやり方となった。
また、この急激な人口増加期に学校設置を優先させたため、横浜市ではいまだに中学校で給食が供されていないと言われる。給食センターまでは手が回らなかったのだ。各区に1館しかない図書館、地区センターが児童館を兼ねている状況なども同様の事情からだろう。急激な人口増にとにかくなんとかしてきたのが横浜の成長期だったのである。
その後、2002年に初当選した前市長・中田宏氏は財政の危機を訴え、実際に多くの公共事業をストップし、経費削減など改革に努めたが、現在は市財政局のホームページなどで控えめに触れてはいるものの、かつてほどの危機感は感じさせない状況である。
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