「契約金泥棒」の斉藤和巳がエースになれた理由 無名のドラ1男が沢村賞投手になった背景
もう1つ、一緒にトレーニングと生活をともにするようになってから、わかったことが林にはある。
「『絶対に一番になる』という気持ちが強かった。それが、小久保さんと和巳に共通するところでした。僕のほうが年上ですが、和巳のそういうところを勉強させてもらいました」
もし、あの出会いがなかったら…
斉藤よりも6歳上の小久保が振り返る。
「僕と出会って何を思ったのかについて本人に聞いたことはないんですが、練習量が多いことには影響を受けたんじゃないでしょうか。一軍でタイトルを獲った選手でもこんなに練習するのなら、自分もやらないと、と。僕自身、ホークスの先輩の秋山幸二さん、工藤公康さんが自主トレで自分を限界まで追い込むということを知って、『その練習を自分も取り入れよう』と思いましたから」
引退までに通算413本塁打(歴代16位)を放つことになる小久保からすれば、斉藤の体はプロのそれではなかった。しかし、自主トレメンバーに加わるようになってから、ぐんぐん成長していった。
「和巳はまだ細くて、プロの体になりきっていなかった。背は高いけど華奢な印象でした。一緒に練習をするようになって、ある年の冬を境に、尻まわりが別人のように大きくなったんですよ。『これはやるかもしれないな』と思ったら、球速も上がり、一軍に定着するようになりました。出会った頃とは、見違えるような体つきになりました」
2000年に5勝を挙げた斉藤は、その後、肩の痛みで苦しんだものの、2002年に4勝を挙げてエース候補に名乗りを上げた。
斉藤は自身の野球人生を振り返って言う。
「もし小久保さんとの出会いがなかったら、僕はもっと早くユニフォームを脱ぐことになったかもしれない。おそらく、大切なことに気づくことはできなかった。小久保さんのおかげで『このままじゃあかん、自分でしっかり考えよう』と思うようになりました」
開幕投手を任された2003年に20勝、2004年に10勝、2005年に16勝、2006年に18勝をマークした。この4年間の敗戦数は16しかない。勝率は8割。最多勝、最高勝率などのタイトルを総なめにし、沢村賞を2度獲得する大エースになった。
どれだけ才能のある選手でも、ひとりでは成長できない。そのことを斉藤と小久保が教えてくれる。
(文中敬称略)
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