FRBの次期副議長、フィッシャー氏の横顔 イスラエル中央銀行時代の実績
政策運営への意欲
フィッシャー氏は旧北ローデシア(現在のザンビア)で、ユダヤ系移民の家庭に生まれる。13歳で現在のジンバブエに移り住み、高校最後の年に経済学のコースを履修。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学び、後に教授職に就くことになるマサチューセッツ工科大学へ移った。ここでは、金融政策が効果的に雇用を拡大させることができるとの主張を展開し、物議を醸すことになる。
チーフエコノミストとして働いた世銀での2年半に、政策運営に関与することへの意欲が強まり、マサチューセッツ工科大学に戻っても再び学問の世界に溶け込むことに苦労したという。
当時、米財務省で要職に就いていたサマーズ氏の支援もあり、1994年にはIMFの筆頭副専務理事として、政策運営側に戻る機会を得ることになる。
1994年のメキシコ通貨危機でのIMFによる支援でも重要な役割を担ったほか、1997年に始まったアジア通貨危機では、韓国やタイ、インドネシア、ロシア向けの融資の調整に当たった。
その後、一旦はシティグループの副会長に就任。だが2005年12月にイスラエル中銀の総裁ポストへの打診を受け、政策運営の世界に戻るというチャンスに飛びついた。
就任して2年で金融危機に見舞われたが、2008年10月7日に政策金利の引き下げで対応。世界の主要中銀に一歩先駆けた動きだった。
2011年には6人から成る金融政策委員会を立ち上げ、金利決定に関する投票を実施。金利はそれまで、総裁の裁量で決まっていた。
FRBの超緩和的な政策については、他の新興市場の高官とは違って批判はしていない。実際、米国の政策への批判は「的外れ」だと指摘したこともある。
最近では量的緩和策についての一定した評価を示しておらず、醜悪で危険だとしながら、効果的で必要、とも述べている。
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