暴力や徘徊の心配はなくなったが、香川さんには義父の汚物を取りに行き、洗濯してまた届けるという仕事が残されていた。
「“介護の記憶は臭いの記憶”です。現在は改善されていると思いますが、昔の介護施設は独特の臭いがありました。義父はおむつをしていたものの、どうしても漏れて悲惨な状態でした。いちばんつらかったのは、汚物の臭いと重さですね」
香川さんが東京へ帰っている間は、義母の会社の従業員がやってくれた。夫がしたのは一度だけ。しかし下洗いをせず、おむつごと洗濯機に入れてしまったため、散乱した吸水ポリマーと臭いが取れなくなり、洗濯機を買い換えることになった。
そして2003年6月、義父は74歳で亡くなる。死因は風邪だった。
義父母が亡くなった後、今度は母の介護を
香川さんの父は、息子が生まれる2年前に心臓破裂で亡くなり、母はそれ以降、生活のリズムを崩していた。過食で急激に太り、入退院を繰り返していたが、母のことは同居する妹に任せていた。
義父を看取った4カ月後、母が骨粗鬆症による背骨圧迫骨折で入院。香川さんは3姉妹の長女だが、妹たちは仕事があるため、香川さんが川越まで食事介助に通うことになる。
その頃、夫は義母の会社を整理するため、帯広へ行き来していた。
息子は足や耳の受診と言葉の遅れについて相談のため、都内の療育センターとクリニックに通う。5歳には順天堂大学病院で耳の手術をした。
夫は義父の死から2年後、整理するはずだった会社を継ぎ、帯広へ移住。別居状態に。
「夫には『文句ばかりでちゃんと両親の面倒を見てくれなかった』と言われました。私がしてきたことを全部知っていて、本当に理解できるのは夫だけだったのに。どんなに言葉を尽くしても、もうこの距離を埋められないと思いました」
そして2006年、母と同居する上の妹から「介護に疲れた」と泣きつかれる。妹たちとの話し合いの結果、香川さんが介護のキーパーソンとなり、練馬の家の近くに母を呼び寄せることになった。翌年10月、母を呼び寄せるタイミングで下の妹も練馬に転居。
主治医と相談し、大量の薬を徐々に減らすことで、母は足の痛みが軽減。香川さんの息子の学校行事に参加できるほど元気になった。
しかし2011年、玄関での転倒をきっかけに、再び入退院を繰り返し始める。
認知症もあるため、施設への入所をケアマネジャーに相談したが、金銭的にも優先順位的にも練馬では難しいと言われる。そこで、川越の実家へ戻ることを検討。
2012年、5年ぶりに川越を訪れると、実家は住める状態ではなかった。上の妹はうつ病を発症し、5年分のゴミが天井まで積み上がっていたのだ。
おむつをしていた母は時々、粗相をすることもあり、上の妹は再同居を嫌がった。香川さんは、週5日デイサービスに通うため、ほとんど介護はいらないこと、妹のものは触らないことを約束。玄関から母の部屋までを片付け、母を実家に戻す。
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