香川さんが帯広に残ると、義母は義父に付けるヘルパーを探し始める。しかし「言葉遣いがダメ」「こんな人じゃお父さんを任せられない」と一向に決まらない。2カ月後にようやくお眼鏡にかなうヘルパーが見つかると、義母は抗がん剤治療に入った。
香川さんは2歳になったばかりの息子とともに、着の身着のまま帯広にとどまり、義理の両親の介護に努めた。
義理の両親の死と息子の障害
義父は施設に入所したこともあったが、怒ると乱暴になり、ほかの入所者やスタッフが怖がるため、3日で退所する。一方、義母の抗がん剤治療は芳しくなかったが、それでも「お父さんが心配なの」と、時々家に帰ってきた。がん病棟に幼児は入れないため、義母を見舞うときはベビーシッターに預けた。
義父のヘルパーは徘徊対策に2人体制をとり、夜間も付けていたが、介護保険ではカバーしきれない。余命半年の義母にがん保険が下りたが、義父のヘルパーと息子のシッター代に消えた。
息子は6カ月検診で「フロッピーインファント」の疑いがあり、「走ることは難しいかもしれない」と告げられた。フロッピー(floppy)は「ぐにゃっとした」、インファント(infant)は「子ども」という意味で、筋緊張低下症ともいわれる。
8カ月のときには肺炎で順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院し、水頭症の可能性を指摘された。検査の結果、心臓の動きに乱れを発見。また、筋肉を作る酵素の量や脳波に異常の可能性があるなど、検査や入院が続いた。
2歳になっても歩き出さず、言葉も発しないため、区の療育相談に通い始める。2002年4月には都内の幼稚園の準備保育や幼児教室に入会したものの、帯広へ行き来していたため、ほとんど通えなかった。
「歩けないのは母親が甘やかしているからだ」「外で遊ばせなきゃダメよ」と義母やシッターから言われ、悩んだ末に遠くから見守ることを選択した結果、階段から落ちて鼻を骨折させてしまったり、シッターさんに預けている間に門の丁番に指を挟み、危うくちぎれるほどの大怪我をさせてしまったこともあった。
「今なら『子育てに専念したい』とはっきり言えますが、当時はいい嫁になりたい一心で自分を縛っていました。結局、子どもにしわ寄せがいっていたと思います」
息子に「友だちを作ってあげたい」と思い、時々お弁当を作って近くの公園などに連れて行ったが、なかなかうまくいかなかった。
「母親としてつねに罪悪感を抱えていました。私自身もママ友ができず、学生時代の友だちも、当時は介護をしている人はいません。『大変ね』と言われても、心から理解してくれているとは思えなくて、孤独でした」
2002年6月、70歳で義母が亡くなる。義父は香川さんやヘルパーの手に負えなくなっていた。その翌月、ケアマネジャーの助言により精神科病棟に入院させる。入院患者は高齢者がほとんど。1人でしゃべっている人や何かを叫んでいる人が何人もいた。
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