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芸術家の住まいというのは、その創意が反映された美しい館であることが多い。この連載でも以前に取り上げた、日本を代表する彫塑家・朝倉文夫の自邸でありアトリエであった「朝倉彫塑館」や、日本画の大家・川端龍子の旧宅・アトリエである大田区の「龍子記念館」など、功なり名を遂げた芸術家は自分の思いのままの館やアトリエを築いている。
しかし今回訪ねるのは、佐伯祐三、中村彝という、後世名を残しながらも、夭折(ようせつ)し、その才能を全うすることのないまま生涯を終えた画家たちのアトリエである。いずれも復元されたものだが、よくぞ彼らが創作を行っていた現地に、今も存在していてくれたという感慨を持つ建物だ。それぞれが、大正時代に建てられた木造の三角屋根のかわいらしい家だが、ここが芸術の生まれた場であるというオーラが感じられる。
アトリエの残っているのは新宿区中落合と下落合。大正時代には東京の郊外であり、都心の喧噪を逃れて制作に没頭したいという画家や作家などの文化人が数多く住んだ。また、その周辺は、当時増大していった都市部の中産階級向けの分譲住宅地・目白文化村が開発される土地だった。
佐伯祐三のアトリエの内部
最初に訪ねたのは、佐伯祐三のアトリエ。佐伯祐三は、大正時代にフランスに渡り、ユトリロ、ヴラマンクなどに影響を受けながらパリの裏町などを描いた作品で、今も多くの人に愛されている洋画家だ。ただ、30歳という若さでパリで亡くなったため、生前は十分な名声を得ていたわけではない。
水色のペンキ塗りの建物は、佐伯が東京美術学校(現・東京藝術大学)の学生であった22歳で結婚したときに建てられたアトリエ付き住宅だ。
佐伯祐三は、そのポートレート写真を見ると、現在でも通用するたいへんな美男子。大阪の浄土宗の寺の次男として生まれ、絵画の才能を現し、東京美術学校在学時に、東京・銀座の象牙美術商の娘と結婚。
妻となった米子も、女学生時代から日本画を学んでいた。実家が双方とも裕福だったため、当時は東京郊外だったとはいえ、この場所にアトリエ付きの住宅を持つことができた。
その3年後、佐伯は美術学校を卒業後に妻子とともにフランスに渡ったが、健康を害したことなどから3年後に帰国。このアトリエで、近隣の下落合風景の連作を描いた。
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