「山本権兵衛」元総理の心温まる愛妻物語 豪快でありながらロマンチックな総理だった
「妻を敬うことは一家の秩序と平和をもたらす」
これが、山本が乗り込んだドイツの練習艦の艦長から教わったことだったのだ。
そしてこれに限らず、山本はよき家庭人だった。酒は飲まず、煙草も吸わない。碁は知らないし、将棋も好まない。勝負事もまったくやらない。仕事が終わるとまっすぐ家路につき、家族と一緒に夕食をとって、夜は早いうちに床につく。蒲団の上げ下ろし、シャツのほころびや靴下のつくろいも自分でやった。
その後、紆余曲折はあったものの、山本は海軍で出世を果たす。日清戦争では実質的に海軍を仕切って日本を勝利に導き、1898(明治31)年には海軍大臣に就任する。ただ、出世していく夫の傍らで、妻はといえば遊女の出ということを恥じてか、公式の場には一切顔を出さなかった。
山本自身は、自ら軍艦を案内して履物をそろえたほどの愛妻家なので、自慢の妻を表に出したい気持ちもあったろうが、本人の気持ちをおもんぱかって無理強いをしなかったのだろうと思われる。なお2人の間には5人の娘と1人の息子が生まれた。
いずれ俺も、あとを追う
1933(昭和8)年3月30日、登喜子は72歳で亡くなった。登喜子がいよいよ危なくなったとき、山本も別の病気で伏せっていたのだが、いすに腰かけたまま、登喜子のいる2階にあげてもらい、妻の手を取ると、しみじみ語りかけた。
「お互い苦労してきたが、俺としては今日まで何ひとつ曲がったことをした覚えはない。お前もその点、安心して逝ってくれ。いずれ俺も、あとを追ってゆくから」
登喜子はぽろぽろと涙を流して、夫の手をにぎり返したという。一度は自分の部屋に戻った山本だったが、夜半に再び妻の部屋を訪れ、それから間もなく登喜子は息を引き取った。
「霊柩車が出るとき、俺の寝ているところから見えるようにしてくれ」と山本が言うので、子どもたちはそのとおりにし、登喜子は夫に見守られながら、長年住んだ家を後にしたのだった。
その8カ月後、山本も81歳で逝った。自ら選んだ女性を愛し、尊敬し続けた生涯だった。
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