池上彰×佐藤優「2020年教育改革で起きること」 アクティブ・ラーニングはエリート教育か?
聖書の『使徒言行録』には、「受けるよりは与えるほうが幸せである」という1節があるのだけれど、彼らはそんな境地にはほど遠い。AI時代の強者がそんな人間ばかりだったなら、それはもう地獄というしかない状況になるでしょう。
池上:欧米社会のベースには”ノブレス・オブリージュ”、要するに「身分の高い人たちは、それに応じた社会的責任や義務を果たさなくてはいけない」という道徳観、倫理観があるんですね。エリートたるもの、能力が高いだけではなく、そういうある種の自己犠牲の精神を併せ持つ必要がある。例えば、イギリスのパブリックスクールの出身者は、第2次世界大戦中の戦死者率が異常に高かったりするのです。
佐藤:率先して危険な戦地に赴くから。
池上:そのくらい徹底して、真のエリート意識を涵養するための教育を行うんですね。AI社会の到来で、もしかしたら今以上に格差の広がる可能性があると言われるときだからこそ、そうした教育には一層大きな意味があると感じます。決して戦死者を増やす必要はないけれども。
佐藤:あなたの持っている能力は社会からいただいたものだから、社会に出たら還元しましょう、と。そういう精神は、しっかり育てないといけないですよね。ゆめゆめ、東大に入って、卒業後はベンチャーか何かをつくり、早いところ10億円くらい荒稼ぎして後は悠々自適な人生を送ろうというような、下品なビジョンを思い描く若者を多く生むような社会では、いけないわけです(笑)。
念のため付け加えておきますが、ベンチャーだから悪いというのではないですよ。金儲けが最優先事項であるようなビジョンという意味です。
本当の意味でのエリート教育は必要
池上:そんな話が冗談に聞こえない世の中になった一因は、戦後、建前上「エリート教育はしない」ということになってしまったところにもあります。だから、真のエリートがなんたるかがわからなくなり、実際には一部の中高一貫校などで、「おまえたちは選ばれたエリートなのだから」といって、他校の生徒をさげすんでも構わないような教育をする。
その結果、思い違いを起こした秀才たちを量産するという、まことにもっておかしな状況になっているのです。
佐藤:日本でエリートという言葉の響きがよくないのは、結果的に戦争に突き進んでいった戦前の日本がある種エリート教育の国だったのと、そういうふうに思い違いをして偉そうに振る舞う人間があまりに多いので、そのイメージが定着してしまった、という2つの理由からでしょう。でも、やっぱり本当の意味でのエリート教育は必要だと思うんですよ。
池上:何度も言いますが、私は「自ら考え、プレゼンする」といった力が、これからの世の中には必要で、それは必ずしも指導的な立場に就く場合ではなくても、同じだと思うんですね。ただ、自分が教えている大学をみても、すぐにアクティブ・ラーニングが可能な現場もあれば、かなり準備が必要なケースもあります。
佐藤:教師の側の問題以外に、学生の到達点の違いにも課題があるということですね。
池上:そうです。そういう難しさはあるのだけれど、それぞれのレベルでどのように新しい時代を生き抜ける人を育てていくのか、アクティブ・ラーニングのやり方も含めて、模索していかなくてはならないですよね。
佐藤:またエリートといっても、政治家や国家官僚もいれば、会社のプロジェクトのリーダーや、商店街をまとめていくエリートとかもいるわけです。
池上:いろんな現場で、リーダーシップを持って事を進めていける人たちですね。どんなに偏差値が高くても、それだけではできない仕事です。
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