女子の「盛り」文化は30年でこう変遷してきた 「アムラー」の誕生から「オルチャン」の時代へ

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(上段左から)バブルの名残、アムラー、ギャル(下段左から)エビちゃんOL、アゲ嬢、森ガール、オルチャンメイクのイメージ図(イラスト:久井めぐみ)

平成時代の女子文化で、見た目にまつわるキーワードといえば“盛り”だろう。写真などで、全員そろって妙に目がパッチリ、あまりに色白+ツルン肌といった姿は、まさしく“盛った”ものである。

“盛り”の文化は平成から始まった!

「盛りという言葉自体が世に出てきたのは2002年ごろ。実際より自分をよく見せる、という意味で使われています。ネット上で本人より写真が先に、しかも不特定多数の人に見られるようになり、女の子がデジタル技術やメイクを駆使して、自分を“盛る”ようになったのです

そう分析するのは、盛りを科学的視点から研究している久保友香さん。

ただ、盛りという言葉が使われる以前から、実物以上の見た目を作ろうと工夫する女子文化はあったという。久保さんは自身の体験を交えて、こう語る。

当記事は「週刊女性PRIME」(運営:主婦と生活社)の提供記事です

「1995年にプリクラ(一般名称はプリントシール)機が登場。すぐに女の子の間で人気が出ました。当時の女の子たちはプリクラを貼る“プリ帳”を作って持ち歩いていましたね。

友達同士で交換したプリクラも貼って、みんなで見せ合うので、会ったことのない人にも自分の顔を見られます。だからみんな、実際よりよく見える顔で写りたいと、ポーズやメイクを工夫するようになりました

そうした女心を酌んで、プリクラ機の画像処理の技術は進化の一途をたどっていく。画期的だったのが'03年に登場した機種『花鳥風月』(現・バンダイナムコアミューズメント)。デカ目や美肌に加工できることから、“盛りの方法がメイクからプリクラの機能に変わった”と言われた。

プリクラの登場時、盛り文化の担い手は女子高生が中心だった。昭和の時代、バブルとともに盛り上がった女子大生ブームは、景気の陰りとともに終焉へ。時代が平成に移ると、イケてる女子高生たちが服や小物、ヘアメイクまで人とは違うものを次々と取り入れ、渋谷から発信するようになり、それが流行となった。いまどきの言葉であればインフルエンサーである。

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