「過労死」した46歳自治体職員の悲劇と妻子の今 読み継がれる6歳息子マー君の「ぼくの夢」
最初の不調は1999年4月の胃潰瘍だった。心労が重なったものとみられ、2週間の病気休暇をとった。その後も医師からはさらなる静養を勧められたが、浩さんは「出勤する」と言い張った。
「お父さん、命と仕事とどっちが大事なの?」
美智子さんは必死で止めたが、浩さんは首を横に振った。
「あの仕事の山を思い出すと家でゆっくりと寝てられない。余計ストレスがたまる。すまん。仕事に行かせてくれ」
無理がたたり、半年後の1999年11月に胃潰瘍が再発した。それでも浩さんは働き続けた。
2000年3月の議会に提出する条例案は、山のようにあった。夜の8時、9時ごろまで役所で働き、帰宅後も1時間ほど休んでから深夜1時ごろまで書斎にこもった。翌朝は5時起床。一日の睡眠は4時間ほどだった。
異状は美智子さんの目にも明らかだった。顔色がめっきり悪くなった。温厚な人柄は影を潜め、イライラする機会が増えた。
「夢の中でも寝言で仕事の話をしていました。電話の応対だったり、条例のことを説明していたり。はっきりとした大きな声でした」(美智子さん)
忙しい父を支えるため、マー君もけなげにがんばった。休日になると「お父さんは寝ているから」と言い、自分から外に遊びに行った。幼稚園で発表会があった日、市役所勤めのほかのお父さんは見に来たのに、浩さんは来られなかった。そのときも文句一つ言わなかった。
家族一丸となって苦しい時期を乗り切ろうとしたが、2000年3月の議会の直前になって、疲れ切った浩さんをさらなるアクシデントが襲った。条例案の一部にミスが発覚したのだ。部下が担当した部分だったが、浩さんは大きな責任を感じた。
3月のある朝、自宅を出た浩さんは市役所に出勤せず、和歌山県と大阪府との境に位置する紀見峠に向かった。そして生まれ育った我が家が見渡せる峠の上で、自らの命を絶った。
浩さんが残していた遺書
亡くなる直前、浩さんはなにを考えていたのか。心境を推し量るため、遺書を紹介したい。
市長宛てにはこう書いていた。
そして、マー君にはこんなメッセージをのこしていた。
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