日本人苦学生がNYの不動産で成功したワケ

愛娘の死を経て深まった、夫婦の絆とは

「苦労したとは思っていないんです。配達区には企業の社長や大臣、大学の学長の家があって、毎月集金をしていると、時々ご本人が出てきて『アルバイトをしながら大学に行っているのか。頑張れよ』と声をかけてくれることもありました。ですから僕は、漠然と『いつかこんな人になりたいな、こんな家に住める人間になりたいな』と夢を描くことができたんです。だからアルバイトは楽しかったですよ」

そして1963年。ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、リンドン・ジョンソン大統領が就任するとともに、ベトナム戦争が本格化した。賢次さんが大学1年生のときだった。このベトナム戦争が、賢次さんの人生のターニングポイントとなった。

人はなぜ戦争をするのか、戦争の現場を見るために、単身でベトナムに渡ったのだ。到着した日には、アメリカ大使館で爆発テロがあり、賢次さんは多くの人が亡くなっている姿を目撃したという。その後2カ月間ベトナムに滞在し、帰りの船の中で賢次さんはある決心をした。

「これからは国際社会に貢献できる人間にならなければならない。そのためにアメリカに行こう!」と。

田中角栄とのエピソード

1968年、23歳の時についに渡米。まずは英語を勉強するためにルイジアナ大学で学び、後にスタンフォード大学のビジネススクールに通うためにサンフランシスコへ渡った。

入学前にお金を貯めようとさまざまなアルバイトをしたのだが、その中の1つが、観光ガイド兼運転手のアルバイトだった。すると領事館担当になり、最初のクライアントがなんと佐藤栄作首相、そして次が後に総理大臣となる田中角栄通産大臣だった。当時は日本からワシントンDCへの直行便はなく、みなサンフランシスコに立ち寄り1~2泊して体調を整えてから向かうというのが通例になっていたのだ。

田中角栄とはどんな人物だったのか尋ねてみると、こんなエピソードを話してくれた。

「僕の話し方を聞いて、新潟出身だとわかったんでしょうね。国はどこだと聞かれて新潟ですと答えると、彼の選挙区だったこともあり、大変喜んでくれました。そして一緒に飯を食おうとサンフランシスコの高級料亭に連れて行ってくれ、最後には胸から分厚い札束が入った財布を取り出し、小遣いをくださりました」(賢次さん)

翌日、空港に見送りに行った際には、サンフランシスコ市長や駐米大使などお偉方が列を作って並ぶ中、つかつかと賢次さんの元に歩み寄って握手をし「日本へ帰ったら訪ねて来なさい」と言ったという。さまざまな政治家を案内したが、後にも先にもあんな人はいなかったと賢次さんは振り返った。

その約45年後、賢次さんは当時田中角栄の秘書だった小長啓一氏と偶然再会することがあった。彼にこの話をすると「田中角栄という人はあなたが学生であろうが、会社の社長や大臣だろうが、どんな人でも同じように接する人でしたよ」と言ったという。

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