日本人苦学生がNYの不動産で成功したワケ

愛娘の死を経て深まった、夫婦の絆とは

この頃、知り合いから「新潟から女性が留学に来ている」とある女性を紹介された。その女性が、後に妻となる理恵さんだった。賢次さんが27歳、理恵さんが23歳のときだった。

会ってみると、賢次さんの妹と同じ年で誕生日が1日違い。航空会社は異なるが2人とも客室乗務員をしていたこともあり、なんだか妹のような感じがしてサンフランシスコ市内を案内し何度も会ううちに、お付き合いするようになった。

その2年後に晴れて結婚。すぐに双子の女の子が生まれたこともあり日本にしばらく滞在していたが、やはり国際問題に取り組みたいとウィーンの国連で法務官になることを志すようになった。そこで再びアメリカへ行き、ワシントン大学のロースクールに留学することにした。

その際に妻の理恵さんからは、こんなアドバイスをされたという。

「ワシントン大学を卒業したら、あなたはウィーンに行く予定かもしれないけれど、人生どこでどうなるかわからない。学生ビザではなくて、グリーンカード(永住権)を取ってからアメリカに行きましょう」と。

このときの妻の判断が、後に功を奏すことになる。

「ワシントン大学のロースクールを卒業し、ウィーンへ行く前にニューヨークへ立ち寄ったんですよ。そうしたら、この街のエネルギーにすっかり魅了されてしまって。ここで何かビジネスをやろうと思うようになり、会社を作ることにしました。

あのときに妻からのアドバイスを聞いて、苦労はしましたがグリーンカードをとったからこそ、卒業後すぐにニューヨークでビジネスができるようになったんですよ」(賢次さん)

そんな賢次さんの言葉に対して、理恵さんは笑いながらこんなことを言った。

「主人は目の前のことに一生懸命で、先のことはあまり考えないタイプ。でも私は石橋をたたいて渡るタイプなんですよ」

ニューヨークの不動産ビジネスで成功

38歳のときにビジネスコンサルタント会社「大坪インターナショナル」を設立した賢次さん。ソニーやパナソニックなどの企業へあいさつに行ったところ、法律関係だけでなく駐在員のアパート探しなども頼まれるようになったことから、不動産の会社を設立することになった。

この時、再び妻の理恵さんからこんなアドバイスをされたという。

「日本企業と仕事をするなら、麻雀かゴルフをやったほうがいいんじゃない?」と。

そこで賢次さんはゴルフを始めたのだが、それが彼の運命を後に大きく変えることとなった。

起業した1980年代はバブルの影響もあり、業績はうなぎ上り。いつの間にか従業員数が100人を超えてしまった。そんなことをニューヨーク・タイムズなどが取り上げたところ、その記事を読んだアメリカ人が会社を訪ねてきた。彼はニューヨークのマンハッタンにビルを複数所有する不動産の社長で、賢次さんとビジネスをしたいとやってきたのだ。

次ページいつしかゴルフの話で盛り上がり…
ライフの人気記事
トピックボードAD
関連記事
  • 新競馬好きエコノミストの市場深読み劇場
  • コロナショック、企業の針路
  • コロナ後を生き抜く
  • ポストコロナの明るい社会保障改革
トレンドライブラリーAD
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
トレンドウォッチAD
文具業界を揺るがす動乱<br>「コクヨvs.プラス」の全真相

昨年末のぺんてる株をめぐる文具2強によるプロキシーファイト(委任状争奪戦)。両社のバトルには、8月に設立したプラスの卸子会社が2年前の計画で一度頓挫していたことにも伏線が。縮小する文具業界再編をめぐる壮絶な主導権争いに迫ります。