好きだからこそ厳しく ジャズマン・原信夫氏①

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はら・のぶお ジャズマン。1926年富山県生まれ。海軍軍楽隊で音楽を学ぶ。戦後プロになり51年に原信夫とシャープス&フラッツを結成。リーダー、テナーサックス奏者としてだけでなく、作曲家としても活躍してきた。

僕がリーダーを務める「原信夫とシャープス&フラッツ」はこの秋から来年にかけ、最後のコンサートツアーを行っています。僕にとっては引退興行であり、このツアーでバンドは解散します。

 結成から57年。同じリーダーで50年以上続けているバンドは、世界でも例がないそうです。引退を決めたのはこの歳(82)になると体力的にきつくなってきたのがいちばんの理由。今ならいい演奏で最後を飾ることができると考えました。自分では年数をあまり意識はしてこなかったけど、よくぞここまでやってこられたという感じはあります。

どうして長く続けることができたのか? これはよく聞かれますが、ただひたすら夢中だったというのが本当のところです。ジャズが好きで好きで、一生懸命やっていたら年月が経っていました。

好きだったら一緒にやろうよ

うちのバンドは今も昔も規律が厳しいことで知られています。戦後、クラシックと比べてジャズの地位は低かった。確かに進駐軍の影響もあってジャズはブームになったけど、重音楽のクラシックに対し軽音楽とさげすまれ二流扱いです。

だから何とかして市民権を得たかった。「姿勢を正さなきゃ」と決めたのが遅刻厳禁です。ジャズマンは夜の仕事ですから、朝が苦手で時間にルーズ。でもこれだと誰からも信用されません。ですから集合時間に5分遅れると罰金を取っていました。貯まったおカネは福祉施設に寄付していました。

それから酒。昔のジャズマンは演奏前に一杯引っかけるのは当たり前。でもステージ前には飲ませなかった。終わったらいくらでも飲めばいいんです。ばくちも禁止です。賭ポーカーがはやっていたけど禁じました。ジャズマンはちょっと崩れたところがかっこいいというような風潮があったけど、僕は認めなかった。

僕は自分でバンドをするんだったら、自分の思うようにやりたいと思っていた。音楽だけに集中する環境を作りたかった。メンバーにも、「ジャズ好きだろう。好きだったら一緒にやろうよ」。これが殺し文句です。シャープでやりたかったら、僕の言うとおりやってくれと。

幸い多くのメンバーがついてきてくれました。実際、ほかのジャズバンドと比べたら、人の出入りがずっと少ないんです。音楽を最優先にする僕のやり方にメンバーが従ってくれた。いろいろなルールを決めたのも、いい音楽を楽しみたかったからです。そうやってこられたのは幸せでした。

週刊東洋経済編集部
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