世界最大級「木下サーカス」を知っていますか 結成116年「超エンタメ集団」の舞台裏
年に4~5回の公演地ごとに広大な土地を手当てするのは容易ではない。営業部隊は、公演のほぼ1年前に候補地を決める。遅くとも半年前には現地に先乗り部隊の事務所を開き、地元の新聞社やテレビ局と連携してきめ細かな販促活動を行う。パフォーマーたちが命懸けのアクロバットや空中ブランコ、猛獣ショーを演じて喝采を浴びる裏で、日々、あひるの水かきのような営業活動を展開している。
サーカス経営近代化からV字回復へ
この稀有なビジネスモデルは、一朝一夕にできあがったものではない。創業者の初代、木下唯助氏がロシアの租借地だった「ダルニー(のち大連)」で軽業一座を旗揚げしてから百有余年、さまざまな試練を乗り越え、旅興行は「実業」に練り上げられてきた。
唯助氏の女婿で2代目の光三氏は、第二次大戦中、中国で宣撫官(軍の目的や方針を知らせて人心を安定させることを任務とする軍属)を務め、銃撃戦で瀕死の重傷を負った。興行とは縁遠い環境で育った光三氏は、戦後、サーカス経営の近代化を図る。それまでの「丸太掛け小屋」の仮設劇場を廃し、欧米式の「丸テント」に変革した。
素人目には丸太小屋が大テントに変わっても、「へぇ、そう」で見過ごされそうだが、これが興行形態を根底から覆す改革だった。江戸期から続く、勧進元の影響力を断ち切るぐらいのインパクトがあった。
そして、歩方(ぶかた)と呼ばれる香具師の勧進元の代わりに大手新聞や各地方紙、地方テレビ局との関係を密にし、全国に提携のネットワークを築く。新聞社にとってサーカスの優待チケットは販売拡張の強力なツールだ。もらった人の「着券率」は、抜群にいい。ある新聞社の事業部員はこう語る。
「サーカスほど強烈なコンテンツはありません。数字は言えないが、展覧会やスポーツ観戦、映画よりも着券率はずば抜けていい。座席の決まったコンサートのチケットは招待券に向かない。しかも家族で来場してくれる。木下サーカスが巡業にきてくれるなら、どの新聞社も大歓迎です。大きなサーカスは木下だけになった。100年を超えた信用力でしょうかね」
光三氏がビジネスモデルの原型をつくり、長男の光宣氏が3代目を継ぐ。光宣氏は、演劇とサーカスを融合した新機軸を打ち出し、地方博での公演で空前の成功を収めた。しかし、一転して不調に陥り、40代半ばで急逝。弟の唯志氏が4代目を継ぎ、現在に至っている。
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