「エースの重圧」に負けた城彰二、W杯の苦い記憶 食事も摂れず点滴打って挑んだ若き点取り屋
三浦知良(J2・横浜FC)という絶対的存在を外して挑んだ初の世界舞台。チームを率いた岡田武史監督(JFL・FC今治代表)にすさまじいプレッシャーがのしかかったのは間違いないが、その指揮官から「エース」と指名された城が感じた重圧も壮絶なものがあった。
実はアルゼンチン戦数日前から食事が喉を通らなくなり、かつてないほど心身ともに追い込まれていたという。
「本番3日前くらいから食べられなくなり、夜中に起きて嘔吐するほどの状態に陥ったんです。自分はそういう性格でもないし、もともと食べるのも大好きだから、そんなことは一度もなかった。
でも何も喉を通らなくなりました。ドクターに内緒で点滴を打ってもらって、『監督に言った方がいいんじゃないか』と言われたけど、ワールドカップのピッチにはどうしても立ちたかった。
正直、フラフラしながら、20%くらいのコンディションで試合に挑んだんです。
そういう選手が結果を残せるはずがないですよね。
結局、僕の中では『三浦知良がエース』だったんです。いろんな人が『城がエースだ』と見てくれたことは嬉しかったけど、その重圧に負けてしまった。
カズさんが外れて『自分がチャンスだ』と思えなかった時点でもうダメだった。『俺がその座を勝ち取ったんだ』と喜べるのが本当のプロ。僕は経験値が足りなかった」と彼は悔恨の念を口にする。
アトランタ五輪世代が切り開いた日本サッカーの壁
確かに本田圭佑ならば中村俊輔(J1・ジュビロ磐田)からポジションを奪ったときに1つのハードルを超えたという達成感を覚えていたはず。楢崎正剛(J1・名古屋グランパス)や、今季で引退を表明した川口能活(J3・SC相模原)という偉大なGKから正守護神の座を託された川島永嗣(フランス1部・ストラスブール)も同様だろう。
そこは城に足りなかった部分なのかもしれない。
しかしながら、城ら1996年アトランタ五輪世代が日本サッカーの歴史を切り開いてきたことは紛れもない事実だ。川口、城、中田英寿らが1996年3月の五輪最終予選で28年ぶりに世界の扉を開け、本大会でブラジルを撃破する「マイアミの奇跡」を起こし、カズや井原正巳らドーハ組を追い上げ、1997年11月16日のジョホールバルの歓喜につなげたからこそ、日本代表はワールドカップ出場を果たすことができたのだ。
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