「エースの重圧」に負けた城彰二、W杯の苦い記憶 食事も摂れず点滴打って挑んだ若き点取り屋

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「僕らアトランタ世代は『変革の世代』。日本サッカーの節目節目で重要な仕事を成し遂げてきたという自負はあります。だから、A代表に入った1994~1996年頃は『なぜ自分を使わないのか』という思いが強かったし、『アトランタ五輪代表のほうがA代表より強い』とさえ考えていましたね。

でも、実際に上の世代の人と一緒にプレーするのは難しかった。カズさんやゴンさん、井原さんたちは長年一緒にやっていて感覚的にわかりあってるけど、僕はそのリズムに合わせられない。そこにはかなり苦労しました。指揮を執っていた加茂(周=解説者)監督もドーハ組への信頼が絶大で、メンバーも固定しがちだった。

1997年9月のウズベキスタン戦(東京・国立)でフランス大会の最終予選がスタートしたときも序列は変わらなかった。でもホームで韓国に敗れ、アウェーのカザフスタンに引き分けたところで監督が代わった。岡田さんになってから僕らのことを見てもらえるようになったんです」と城は述懐する。

選手のわだかまりが解けた「タシケントの夜」

岡田監督初采配となった1997年10月のウズベキスタン戦(タシケント)に挑む直前、日本代表は初めて選手全員でミーティングを行い、年齢やキャリアに関係なく、思いのたけをぶつけあった。

命名するなら「タシケントの夜」。この日を境に選手内のわだかまりが氷解し、チームが再浮上していったと城は考える。

当時のチーム状態を回顧する城彰二(撮影:梅谷秀司)

「(1993年10月28日にイラクと引き分け1994年アメリカワールドカップを逃した)ドーハの悲劇を経験した人たちは、あと数秒で世界切符を逃したことに対する思いが強すぎて、ものすごいプレッシャーを感じながら最終予選を戦っていました。

でもドーハを経験していない僕ら若手は『僕らは僕らで新しいフランス大会の切符を取るんだ』というフレッシュな気持ちでいた。

その両者の思いにギャップがあって、チーム全体がギクシャクしていたんです。それを加茂さんから岡田さんに監督が代わった時点で、みんなで話し合えたことが大きかった。

『チームが1つにならなきゃいけない』って結束も生まれて、ジョホールバルにつながっていったんです」

次ページそしてつながったジョホールバルの歓喜
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事