記者も悩む「イエメン」あまりにも悲惨な現状 ジャーナリズムにできることは何なのか
多くの読者は、やせ衰えた7歳の少女、アマル・フセインを撮影したタイラー・ヒックスの写真に心を動かされた。目を見開いたアマルの姿は、内戦の犠牲者の姿を衝撃的に浮かび上がらせた。
人々が心を打たれたのは、取材陣が去った直後にアマルの母が、「家」と呼ぶみすぼらしい難民キャンプに彼女を連れ帰り、その数日後にアマルが命を落としたことだ。
ジャーナリストにも感情はある
苦悩を覚えた一部の読者は、問題の矛先を私たちに向けた。
なぜ私たちはアマルの命を救うために手を打たなかったのか、読者はそれを知りたがった。私たちはただ写真を撮影し、インタビューをし、そして去ったのか? アマルの家族が援助を受けられるようにするために、できることはなかったのか?
「写真を撮り、なおかつ援助をすることはできる」と、ある女性はツイッターに投稿した。「一方が他方を妨げることはない」。
投げかけられた疑問が心に響いた。ジャーナリストは真実を証言するのが仕事であり、援助活動に従事する人や医師は、人々を助けるのが仕事だ。
金銭的な寄付をするなど何らかの形で援助をすることは、倫理的にも現実的にも複雑な問題をはらむ。支援のために1人の人や1つの家族を取り上げることは正しいのか? もっとお金が得られると考えて、彼らが自分たちの身の上を別の外国人ジャーナリストに脚色して話したら?
ジャーナリストは感情がないふりをするかもしれないが、実際には違う。イエメンでは毎日、悲しみで胸がいっぱいになる話を聞かされる。死に瀕した子どもを病院に連れていくためのお金もないといった話は日常だ。イエメンではタクシー料金程度のお金がないために、人々が命を落としている。