41歳で全て失ったライターが遂げた超復活劇 仕事がなくなる中での活路はネットにあった

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当時、中島らもは雑誌『宝島』(宝島社)で『啓蒙かまぼこ新聞』というカネテツデリカフーズのシリーズ広告を手掛けていた。従来の広告手法とはまるで違う前代未聞な内容に、当時の若者は度肝を抜かれた。

「僕も中島らもみたいに生きたいって思いました。そこで素直に中島らもの職業であるコピーライターを目指せばいいんですけど、そうはいかなかったんです。中島らもが歩んだ人生を順番にたどろうと思いました」

中島らもの著作に、氏が印刷会社の営業マンとして働いていたというくだりがあった。それを読んで、

「じゃあ俺も印刷会社の営業マンになろう」と思った。

就職活動の結果、無事、印刷会社に採用が決定した。だが大学を留年してしまった。しかし幸運なことに不採用にはならず、大学に通いながら会社に勤めることになった。

『花形文化通信』というフリーペーパーが作られることになり、印刷の営業に行った。しかし、そこで大失敗をしてしまった。

「失敗の責任を取るわけではないですけど、印刷会社の営業マンは無理だなと思って辞めました。24歳でした。

花形文化通信を出版していた編集プロダクション、『繁昌花形本舗』に謝りに行きました。すると『人手が足りないから手伝え』って言われて社員になりました」

成り行きで編集プロダクションの社員になる

成り行きで編プロの社員になったが、そこから一気に吉村さんの人生のピークが訪れた。

その当時、繁昌花形本舗は関西のカルチャーの最先端を行く会社だった。

雑誌の仕事、テレビの仕事、ギャラリーの仕事、イベント製作の仕事……ありとあらゆるカルチャーの仕事がきた。

「なんでもやらせてもらっているうちに、なぜかバンド『モダンチョキチョキズ』のメンバーとしてソニー・ミュージックからデビューすることになりました。

TV番組の構成としてテレビに出演もしましたし、FM大阪ではラジオのDJまでやってました。20代半ばで完全に絶頂でしたね。

調子に乗っていたんでしょうね。独り立ちしたらもっと儲かるだろうと考えました」

その時、すでに結婚していたが、奥さんに相談することなく会社を辞めた。

「当時の妻は泣いていました。ただ後々、『独り立ちするとこんなに儲かるんだ』ってわかって納得してましたけど」

独り立ちの後も好調は続いた。

その頃関西のメディアは元気だった。『ぴあ関西版』(ぴあ株式会社)、『Hanako West』(マガジンハウス)など関西独自の雑誌が創刊された。テレビ、ラジオも景気がよかった。そのため仕事には事欠かなかった。

当時『VOW』(宝島社)という本が人気だった。雑誌『宝島』に掲載された投稿ページを1冊にまとめた本だ。内容は、街や紙面に転がっているおもしろいネタを所狭しと掲載する街ルポモノだ。

その関西版『VOWやねん!』を吉村さんが担当することになった。小学時代から街ルポをしていた吉村さんにピッタリの仕事だった。ベストセラーになり12万部売れた。

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