41歳で全て失ったライターが遂げた超復活劇 仕事がなくなる中での活路はネットにあった

✎ 1〜 ✎ 44 ✎ 45 ✎ 46 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

4日後、以前合鍵を渡していたなじみの風俗嬢がたまたま様子を見に来てくれた。玄関先で糞尿にまみれて倒れている吉村さんを見て、慌てて救急車を呼んでくれた。

「ウンコとしょんべんまみれで病院に運ばれました。お医者さんに

『車いすをお貸しできますけど、押す人いますか?』

って聞かれました。恋人も身内もいなくて、そして仕事もほとんどなくなり、貯金もない。

さすがに『ここまで落ちたか……』って凹みました」

大阪に帰ろうと思った。

31歳で上京してから10年が経っていた。

完全な都落ち

両親が老後に備え購入していたマンションに転がり込んだ。

「完全な都落ちですね。41歳でやり直すと言ってもなかなか難しいものがあります。大阪を出た時は鼻息荒く『大阪なんか捨てます』という態度でしたからね。『なんや今さら帰ってきたんか!! お前なんかに仕事あるかい!!』って突っぱねられることもありました。また当時の担当者はすでに偉くなっていてライターを採用するような立場じゃなくなっている場合もありました」

関西のメディア自体も冷え切っていて、仕事自体がほとんどなくなっていた。今から12年前は、まだネットメディアの仕事もほとんどなかった。ただ例外的にテレビ業界だけは好調だった。

「知人を頼っていてはどうにもならないなと思い、放送作家の面接に行きました。ほんの少しやったことがあるだけでしたけど『放送作家の仕事できます!!』とうそをつきました」

放送作家の主な仕事はテレビ番組の台本を書くことだ。

まともに台本を書いたことはなかったけれど(筆者撮影)

大阪時代、確かに放送作家をしていたことはあったが、当時は若者向けの番組が多く

「台本なんていらねえよ!! ノリで行っちゃえ!!」

というスタイルの番組が多かった。

だからまともに台本を書いたことはなかった。フォーマットすらよくわからず、ネットに落ちていた台本を参考に、なんとか書いた。

放送作家の仕事は大抵週1である。1本当たりの単価は安くても、積もり積もれば結構な額になる。順調に仕事は増えて収入的にはどん底から抜け出した。

そして良縁もあった。2011年、ツイッターで巡り合った小説家の花房観音さんと結婚した。

次ページライターの道をあきらめかけていた
関連記事
トピックボードAD
ビジネスの人気記事