41歳で全て失ったライターが遂げた超復活劇 仕事がなくなる中での活路はネットにあった

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当時テレビランドには『とよみたんとエーコたん』という漫画が連載されていた。テレビランドの副編集長だった市川英子さんをモデルにしたキャラクターが、漫画家の大塚とよみさんをモデルにしたキャラクターから原稿を催促する漫画だった。

「編集者が漫画家を出刃包丁で脅して漫画を描かせるという展開に腹を抱えて笑いました。読みながら、編集者、漫画家、ライター、デザイナー、カメラマン……などいろいろな人がかかわって雑誌を作ってるんだなって子どもながらに理解しました。」

テレビランドでは全国の読者から50人、ちびっこ記者を募集していた。選ばれると、大きなボールペンと記者バッチ、記者手帳がもらえた。

「毎月、街を歩いて取材してテレビランドに送っていましたね。『近所で交通事故がありました!!』とかそういう内容でした。そして誌面に署名記事が載りました。

当時、小学校4年生だったんですけど、その時の取材手法を現在でも使っていますね」

小学校6年生の時には『ビックリハウス』(パルコ出版)というサブカル雑誌にハマった。以降、判型の小さい雑誌を片っ端から読んだ。

『BOMB』(学研)、『投稿写真』(サン出版)、『写真時代ジュニア』(白夜書房)、『ぱふ』(雑草社)、『PHP』(PHP研究所) などなどだ。

雑誌を読むことで想像を広く飛ばすことができた

「投稿系の雑誌もやたらと出ていて、全部面白かったですね。小学校から社会人までずっと読んでました。雑誌に投稿もしていました。大阪の郊外の画一的な団地に住んでいたので閉塞感もありましたが、雑誌を読むことで想像を広く飛ばすことができました」

だが大学受験の時には、ライターになりたいという気持ちより映画監督になりたいという気持ちが強くなった。

「大阪で刊行されていた『プレイガイドジャーナル』(プレイガイドジャーナル社)が大好きだったんですけど、プレイガイドジャーナルが映画を作ることになったんです」

それは『ガキ帝国』(井筒和幸監督)という映画だった。島田紳助を主役に据えた、昭和40年代の大阪を舞台にした不良少年たちの物語だった。

いろいろな人に影響を受けやすいたちなんです(筆者撮影)

「めっちゃ影響を受けましたね。『こんな映画が撮りたい!!』って思いました」

大学は、映画監督を目指すため大阪芸術大学の映像学科を選んだ。入学後はバイトをしておカネをため、フィルムを買って映画を撮る日々だった。

だが、そのうちにまた映画からほかのものに興味が移っていった。

「いろいろな人に影響を受けやすいたちなんですよ。それまでも糸井重里や篠原勝之などいろいろな人に影響を受けてきましたけど、その時は井筒監督の友達の中島らもに影響を受けました。『なんておもしろいんだろう!!』って」

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