『城さんは自分の息子にどんなアドバイスをしますか?』(学生・男) 城繁幸の非エリートキャリア相談

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<城繁幸氏の診断>

診断:『日本の大学教育の持つ特殊性』

 年功序列を基本とする昭和的価値観は、社会全体をすっぽりと覆っています。教育も例外ではありませんね。義務教育を経て高校、大学と続き、新卒を企業へと送り出す一連のシステムとして、今もしっかり機能し続けています。まずは、日本における大学という存在について、ざっと整理してみたいと思います。

 日本企業は新卒者をゼロからたたき上げる年功序列が基本です。その結果、一部の研究職以外、専門課程における成果はあまり重視されてきませんでした。最近は3年生に対して内々定を出す企業も珍しくありません。大学教育には、何も期待していない証拠ですね。成績が非常に重視されるアメリカのMBAなどとは、実に対照的な考えです。

 では、企業は何を基準に学生を選考するのでしょう。それはポテンシャルです。そして、その最大の指標は学歴です。日本の大学は教育機関というよりも、企業へのレールに乗るためのパスポート発行機関だったと言えるでしょう。

 日本の大学生が勉強しないということは、何十年も前から巷間で言われてきた事実ですが、それにはこういう事情があるんですね。パスポートさえもらえれば、わざわざ勉強する必要はありませんし、なにより企業側もそんなことは求めていないのです。

 ただ、これはとても無駄なことです。日本全体で見た場合、体力の有り余った若いもんが4年間、勉強も仕事もせずにぶらぶら無為に遊んでいるわけですから。社会にとってはもちろん、人生の貴重な4年間を無為に流してしまうのは、本人の人生にとってもけして良いことではありません。

 では、理想の大学教育とはどうあるべきでしょうか。

 それは、高校(百歩譲って教養課程)の段階で、自分の大まかなキャリアプランをたて、専門課程ではそのプランに添った専門性を伸ばすというものです。 そのためには「~をやりたい」と願う主体性が、まず何よりも必要となります。ただ、残念なことに、この主体といったものが、日本の教育システムではとても薄くしか育てられていないのです。

 たとえば東大法学部なんて、「弁護士としてこういう活躍がしたい」「こういう法律を学びたい」なんて思って入ってくる人間はほとんどおらず、ほとんどの人間は「なんとなく偉くなれそうだから」という曖昧な動機しか持っていないわけです。いや、中にはそれすら欠落し「ただ受験勉強に精を出し、気が付いたら入学していた」というレベルの人間も結構いますから。こうなると一人の自我を持つ人間と言うよりも、ほとんど競走馬みたいなものでしょう。

 さて、その昭和的価値観ですが、社会においてはずいぶんと綻びが目立ち始めました。たとえば、30代の82%が、将来の仕事について何らかの不安を感じている時代です(2007年読売新聞調査)。「良い大学を出て就職すれば、あとは定年まで一直線」という安易な思い込みは、少なくとも実社会においては既に崩壊していると言えるでしょう。

 ところが教育システム内では、むしろ昭和的価値観は強まっているように見られます。『プレジデントファミリー』のようなエグゼクティブ向け家族雑誌が20万部も売れる背景には、子供に対して自分たち以上の教育を受けさせようとする中産階級の危機感があります。

 どうすれば高い学歴を手に出来るか。どうすればより安定したレールの先に進めるのか。いわば、席の少なくなった年功序列のチケットを、なんとかして子供に買わせようとするようなものです。これは昭和的価値観そのものですね。
そこには相変わらず、主体性は欠如したままです。

 では、実際のところ、本人が主体を持たないままで、その親世代が望むような目的地(定年まで安定した雇用と、企業内での一定の出世)につけるのでしょうか。

 まったく無いとはいいません。フジテレビや日経新聞や電通に入れば、何も考えずに言われたことをやっているだけで、十分社会的な成功は得られるでしょう。

 でも、それは既に例外なんですね。大方の企業で普通に働いているだけでは、親たちが望むような収入も、やりがいも得られはしないでしょう。そしてそれに気付いた時、大方の人にとっては既に手遅れでしょう。彼らは閉塞感の中、自分の子供たちの教育にさらなる情熱とお金を注ぐはずです。まさに負のスパイラルですね。

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