遊女の面影をもとめて、吉原の「今」を歩く カストリ書房店主×歴史タレントの遊廓対談

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

渡辺:ところが、その理由が不明なんですよね。台東区が1960(昭和35)年に出した『新吉原史考』という本にも「正確な理由はわからない」と書かれています。

堀口:有力なのは、一般のまちとは隔絶させるために吉原の中をわざと見えないようにしたという説。たしかにカーブがあることで見返り柳からは、吉原の入り口である吉原大門が見えないんです。でもそのことで逆に、曲がり角を過ぎた瞬間に、きらびやかな吉原のまちが広がって見えるという演出効果が生まれたのではないかと思います。

吉原神社。大門の手前にあった吉徳稲荷社と、廓内の四隅にあった榎本稲荷社・明石稲荷社・開運稲荷社・九郎助稲荷社の5つの稲荷神社を合祀し、1872年に吉原神社として誕生した(撮影:藤原江理奈)

渡辺:まさに、現実離れした世界への入り口という感じですね。

堀口:その吉原大門については、現在、仲之町通り沿いにポールが立っていますね。

渡辺:なぜか、江戸時代にあった大門の位置とは少しずれていますが(笑)。

堀口:質素なポールですが、味わい深いです。

渡辺:ええ。ただ、ここまでシンプルではないにしても、実際、江戸時代にあった大門も質素だったようですよ。

堀口:江戸時代は質素倹約を謳っていましたからね。

渡辺:ちなみに、当時の吉原は「お歯黒どぶ」と呼ばれる濠で囲まれていて、普段、出入りできる場所はこの門だけでした。いわゆる、遊女たちが外に出ていかないようにするための策です。

堀口:とはいえ、遊女たちもお花見や店をあげての芝居見物のときなど、たまに外に出ることができたそうです。

まちのあちこちに残る遊女の残り香

渡辺:大門を過ぎて吉原のメインストリート・仲之町通りを進むと吉原神社があります。

堀口:この神社は、かつて吉原遊廓に祀られていた5つの稲荷神社を合わせたもの。ですから、江戸時代のものではないんです。

吉原弁財天。緑が美しい境内の中心には吉原観音が祀られている。さらに奥へと進むと、東京藝術大学や武蔵野美術大学の学生・卒業生によって製作された社殿に壁画や欄間彫刻が(撮影:藤原江理奈)

渡辺:建てられたのは1872(明治5)年。このあたりの氏神様ですから、今でも地元の方がよくお参りされています。また、吉原神社から1分ほど歩いた場所にあるのが吉原弁財天。吉原神社とは違い、雰囲気も独特で怖い印象をもたれる方が多いですね。

堀口:私も最初に来たときは怖かったです。ここに弁天池があり、関東大震災で亡くなった遊女たちの焼死体が並んでいたという逸話を読んだことがあったので、ネガティブなイメージが強かったんです。

渡辺:でも、その遊女たちの供養のために、ここには吉原観音像もあるわけですし、こうして思いを馳せられる場所があるということは、ある意味、健全だといえます。

堀口:そうですね。それに、今は美大の学生さんたちがアートで明るくしてくれているので、現代的な空間に変わってきているなと感じます。

(東京人11月号の記事より一部抜粋)

倉田 モトキ ライター・エディター

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

くらた もとき / Motoki Kurata

1974年三重県生まれ。演劇、映画を中心にインタビュー、書籍・パンフレット制作を行っている。近年の担当書籍に『NACS HOLIC 2008-2017』など。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事