30歳、年収450万で親のスネかじる彼の現実 一度味わった生活水準を下げられない

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出版社には受からなかったが、大手新聞社の関西支所の内定が出た。事件や事故を担当し、記者として日々走り回った。給料は手取り35万円。ボーナスも年に2回1.5カ月分出たが忙しすぎて使う暇がなく、お金は貯まる一方だった。しかし、あるときから貯まらなくなっていく。

「おそらく、タクシー移動に慣れすぎちゃったんだと思います。仕事でタクシーやハイヤーをガンガン使うので、プライベートでもちょっとしたことでタクシーを使うようになってしまいました。昔、親父が『困ったらタクシーに乗れ』と言っていたので、その教えもあって今でもすぐタクシーに乗ってしまいますね(笑)」

当初、トモヒロさんは文化部への配属を希望していたが、文化部は東京本社にしかない狭き門。しかも、ようやく希望の部署に行けたとしても、4〜5年で異動になってしまう。専門の部に短い期間しかいられないのはもったいないのと、12〜13年すると管理職となり、現場を離れてしまうのは面白みに欠けると考え、入社2年ちょっとで転職を決めた。

それまでも、記者として働きながら大手出版社への転職活動を続けていたが、同じ出版社を3回受けて、最終面接の1つ手前で落ちてしまっていた。ここで、出版社勤務の夢はあきらめた。

2番目に好きなものを仕事にしてみるもうまくいかない

「新聞も出版社もダメとなったら、2番目に好きなジャンルである映画を仕事にしようと、映画の興行会社に入りました。出版業界では、本屋大賞を開催したり書店員さん主導で棚を作ったりして、書店は頑張っている。でも映画業界は配給も現場の役者さん・スタッフさんは頑張っているのに、映画館スタッフが自発的にオススメをすることはないので、映画館側があまり頑張っていないように見えたんです。そこで、出版業界と同じ構造を当てはめて映画業界を盛り上げたいと思ったんです」

そんな夢を抱いて興行会社に入社したが、現実はうまくいかなかった。まず、映画館にはバイトも含め100人ほどスタッフがいる。自分よりも経験のある人たちの中に新入社員として入ったところ、自分の仕事のできなさに絶望した。現場の仕事をこなせないと、映画を盛り上げるための企画は通せない。自分に合わないと感じた。そのうえ、手取りは月17万円だった。

結局半年ほどで映画の仕事はやめた。そして、東京にある某出版社に入社。月刊誌を担当した。給料は手取りで22万〜23万円。関西から引っ越しをしたため、お金がなくなってしまった。ここでも大学時代と同じよう、親にお金を振り込んでもらった。

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