荒木大輔vs愛甲猛、1980年の夏もアツかった 38年前甲子園に降臨した一年生エースの躍動
愛甲は決勝までの5試合で571球を投げていた。自責点はわずか1。1980年夏の甲子園決勝は、44回3分の1を無失点で抑える荒木と世代最高のサウスポー・愛甲との対決になった。愛甲は言う。
「試合前、安西健二(元読売ジャイアンツ)が『1年坊主に記録つくらせるんじゃねえぞ』とねじを巻いていました。『コントロールがいいから初球からいこう』と。渡辺元智監督も僕の打席でヒットエンドランのサインを出すなど初回から仕掛けていきました。大輔は低めのコントロールがよかったんだけど、ボークをしたし、あの試合は何かが違っていましたね。
決勝戦は試合前にバッティング練習もあって、甲子園にいる時間が長くて、少しずつお客さんが入ってくるのもわかる。それまでとは雰囲気が全然違っていて、何かが影響したのかもしれません。ずっとポーカーフェイスだったのに、決勝だけ動揺している感じに見えたから」
先取点を奪ったのは早実だった。2安打と犠牲バント、スクイズで1点を取った。その裏、横浜は二番打者からの3連打であっさり同点に追いつき、荒木のボークでもう1点を追加した。横浜打線が荒木の連続無失点記録の更新を阻んだ。
横浜は2回に1点、3回に2点を加え、主導権を握った。7安打を打たれ、5失点した荒木はレフトへ。その後、8回に代打を送られベンチに下がった。
荒木は初めての甲子園をこう振り返る。
「自然に疲れは蓄積していたんでしょうが、『疲れた~。もうダメだ』と感じることはなかった。それは、本当に甲子園のマウンドを楽しんでいたからだと思います」
試合後に早実の和田明監督は「荒木は雰囲気にのまれて、気持ちが上ずっていたのかもしれない」と語った。
大輔より早く降板するわけにはいかない
対する愛甲も万全の状態ではなかった。決勝までの5試合をほぼひとりで投げ続けたことで、体力は限界にきていたと愛甲は言う。
「もう肩が痛くて、投げられる状態ではなかったですね。でも、大輔よりも早くマウンドから降りるわけにはいかない。その意地もありました。横浜がずっとリードしていましたが、このまま終わるはずはない。
5回が終わってブルペンを見たら、控え投手の川戸浩がすごいボールを投げているのが見えた。『オレよりも絶対にいい』と思ったので、渡辺監督に『代えてください』とお願いしました」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら