甲子園を去った名将、その先も続く野球人生 「日大山形」「青森山田」を率いた澁谷氏の思い

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8月15日、甲子園で「育成功労賞」を受賞し、記念の盾を受け取る澁谷良弥氏。日大山形(山形)と青森山田(青森)の監督として、春夏合わせて22度甲子園に出場した名将だ(写真:共同通信社)

きょう23日午後に広陵(広島)と花咲徳栄(埼玉)の間で決勝戦が行われる高校野球「夏の甲子園」大会。全国3839チームの頂点を争う熱闘も、いよいよクライマックスを迎える。今年、夏の甲子園は第99回を迎えた。夢を追い、汗を流した数多の選手や監督たちが、その歴史を作り上げてきた。

8月15日、甲子園球場で東北の名将が表彰された。「育成功労賞」の表彰式に、日大山形(山形)のかつてのユニホームで臨んだのは澁谷良弥氏。今夏の甲子園にも出場した強豪校をかつて監督として率いた澁谷氏は「2度と甲子園の土を踏めるとは考えていなかった。感動、感激です。(グラウンドにつながる)通路を、勝ったら胸を張って、負けたらしょんぼりして歩いたな、と思い出しました」と笑顔で話した。

監督人生45年で22度の甲子園出場

澁谷氏は日大山形(山形)と青森山田(青森)の監督として、春夏合わせて22度甲子園に出場(春4、夏18)、16勝(春3勝、夏13勝)を挙げた。2016年7月に山形商業(山形)で45年の監督人生に終止符を打った。「鬼の澁谷」として選手に恐れられた監督でもあった。

日大山形から日本大学、社会人野球の金指造船に進んだのち、澁谷氏が母校野球部の監督に就任したのは1972年、25歳のときだった。「本当に恥ずかしい話なんだけど、昔のことだからいいでしょう。日大山形は私の母校だけれど、まあ、ひどかった」。

当時の日大山形の野球部は、惨憺たる、と表現しても過言でない状況だった。「部室に入ってゴミ箱を見ると、たばこの吸い殻がたまっていた。上級生によるしごきもひどくて、小さなことで難癖をつけて後輩をいじめるのがいっぱいいた。だから、下級生は上級生の顔色ばかり気にしている。まともに野球ができる状態ではなかったですね。私自身、まだ若くて腕力もあったから、真正面からぶつかりました」。

伏見工業ラグビー部をモデルに、熱血教師と荒れた高校生の格闘を描いたテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」(TBS系列)が人気を集めたのは1984年から1985年にかけてのこと。だが、それよりずっと前から澁谷氏は「泣き虫先生」のようにヤンチャな選手たちと戦っていた。

「あっちから向かってくる子もいて、ぶっ飛ばしたこともありました。自分から部を辞めた選手もいたし、私が辞めさせた子もいました。監督になってすぐの年は、20人いた3年生のうち2人しか残りませんでした。だから、チームの成績も振るわず、春の大会はコールド負け。夏の県予選は1回戦負けでした。でも、そのときになあなあで済ましていたら、その後の日大山形はなかったでしょう。負けからスタートしたことが逆によかったと思います」

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