甲子園を去った名将、その先も続く野球人生

「日大山形」「青森山田」を率いた澁谷氏の思い

夏の県予選であえなく1回戦負けを喫した後、澁谷氏は一策を講じた。

「それまでずっと負け続けだから、選手たちは自信をなくしていました。だから、新チームになってからは勝てそうな相手を選んで練習試合をしました。みっちり練習して、練習試合で勝てるようになると、選手たちも少しずつ自信がついてくるんですね。『おまえたち、強いなあ』と言うと、強豪チームの選手みたいな顔になってくる。秋の県大会で優勝して東北大会に進み、運よく、そこでも優勝。おかげさまで、センバツ大会に出ることができました」

それまで、全国47都道府県のなかでセンバツ出場がなかったのは山形県の高校だけ。山形県勢として日大山形が初めて春の甲子園に足を踏み入れたのは1973年のことだった。初出場の日大山形は初戦で境(鳥取)と対戦し、歴史的な初勝利を挙げた。「それまではテレビのクイズ番組で『いままで一度もセンバツ大会に出ていない県はどこでしょう』という問題が出されるほどでした。あの試合はうれしかったですね。2回戦で天理(奈良)に1対12でボロ負けしましたが、甲子園での1勝には大きな意味がありました」。

甲子園で確かな手応えをつかんだ日大山形の選手たち。勢いに乗った彼らは夏の山形県大会も制し、再び聖地に戻ってきた。「春と夏に挙げた勝利が、日大山形というチームの始まりですね。あのときに甲子園に行って、そのすばらしさを選手たちが実際に感じたことが大きかった」と振り返る。

「グラウンドに立った者も、スタンドから試合を見た者もいますが、甲子園に行ってチームは変わりました。『甲子園はすばらしいとこだべ』『またオレらも行きたいな』『みんなで一緒に行こうぜ』となりました。また、そこで勝ったことで、優秀な選手がたくさん来てくれるようにもなりました」

「3年に1度は甲子園」という目標の意味

1973年の春と夏に甲子園に出場し、初戦突破を果たした日大山形は東北でも有数の強豪校へと成長していく。「監督になったとき、私は目標を立てました。それは、1人の生徒の在学中に1度は甲子園に出るということです。3年に1回は出たいと思いました。グラウンドなのか、スタンドなのかはその選手の実力にもよりますが、高校時代に1度は甲子園に行かせてやりたいと考えました」。

甲子園に3年に1回は出る――。春と夏、1年に2回大会があるが、やはり高い目標だ。「私は30年間、日大山形で監督をやりましたが、1985年からの3年は甲子園に行けませんでした。あの頃が、監督をやっていていちばんつらい時代。『もう二度と甲子園に行けないんじゃないか』とさえ思いました。その頃の選手には申し訳ないという気持ちがいまでもあります」。

監督生活45年、澁谷氏の教え子は1000人を超える。栗原健太(元広島東洋カープ、現楽天イーグルス2軍コーチ)のようにプロ野球で輝かしい成績を残した選手もいるが、ほとんどはひっそりと野球人生を終えた。甲子園の土を踏むことができた選手もいれば、県大会で涙を飲んだ者もいる。レギュラーとしてプレーできた選手も、最後まで背番号をもらえなかった者も。

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