甲子園を去った名将、その先も続く野球人生 「日大山形」「青森山田」を率いた澁谷氏の思い

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ただ、どの教え子に対しても、澁谷が一貫して伝えてきたことがある。「最後までやり切る」ことだ。

どの教え子に対しても変わらぬ思い

「私には1000人もの教え子がいますが、みんなが宝です。進学や就職のときには、補欠だった子から先に決めようと思っていました。レギュラーはいい成績を残せばどこからか声がかかりますが、控えの子はそうじゃありませんから。大学で野球を続ける子には『4年間、最後までやれよ』と言います。途中で辞めたら後輩に迷惑がかかります。選手として試合に出られるかどうかよりも、最後までやり切ることが大切なのです。どんなに大変なことがあるかもわかりません。ですが、それだけは口をすっぱくして言ってきました」

勝つことだけがすべてではないが、甲子園に出ることによって報われることがある。だからこそ、3年に1度は、と出場に向けて力を尽くし続けた。そして、甲子園を目指した日々こそが、1000人の教え子を育てたのだ。

澁谷はこうも語る。「私は中学生の練習を見るときに、ユニホームの着方をチェックしました。きちんと帽子をかぶっているか、ボタンを留めているか、腰のところでベルトを締めているか。そのあたりがだらしない子はダメ」。技術を磨き、体力を伸ばすだけではなく、練習や試合にどのような気持ちで向き合うか、そこも含めて「野球」なのだとつねに教えてきた。

澁谷氏は2017年4月限りで山形市のスポーツアドバイザーを退任したが、小中学生を中心に野球の指導を続けていくつもりだ。いま、澁谷氏には気掛かりなことがある。最近の子どもたちの野球に取り組む姿勢だ。

「ファウルボールが飛んでも、誰も拾いにいこうとしない。少年野球で、試合後のグラウンド整備を親がしているのを見たこともあります。ちょっと待ってほしい。子どもたちにやらせて、できないところを親が補うのが普通なのではないかな? 親にすべてをお膳立てしてもらっているようでは、いい野球選手にはなれません。そういうところは心配ですね」

澁谷氏の新たな教え子もやがて、甲子園を目指すことだろう。昔と今、甲子園を目指す球児を比べてみたときに、何が違うのだろうか。

「確かに技術は上がりましたが、昔と比べると、ハングリー精神が足りない選手が多いような気がします。みんな、『甲子園に行きたい』と口にするけど、どれだけ本気なのか。どこの高校の選手でも甲子園には行きたい。でも甲子園は、『行きたい』と言うだけで行けるところではありません。『絶対に行く!』という強い気持ちを持たないと」

立場こそ変わっても、野球に向ける熱い思いは同じ。澁谷氏の野球人生は、これからも続いていく。

元永 知宏 スポーツライター

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もとなが ともひろ / Tomohiro Motonaga

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。直近の著書は『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、同8月に『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)。19年11月に『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長。

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