鹿島の社長が「横浜市立南高」に回顧する青春 家計を支える苦労はあったが周囲に恵まれた
実家は横浜の井土ヶ谷というところでミシン加工屋をやっていて、中華街向けに中国の民族衣装を仕立てる仕事をしていました。ただ、私が中学生の時に親父が倒れまして、寝たきりになって仕事ができなくなってしまったんです。そこで私も働きに出ることになりまして。平日は毎日新聞配達、休日は郵便局で郵便の仕分けをしていました。
奨学金を借りて何とか公立高校に入った
中学3年生になって進学するかどうかを相談したとき、親父が「高校ぐらい卒業しなきゃだめだ」と。奨学金を借りれば何とか公立高校に入れるので、中学の学区の中にあった横浜市立南高校に進学しました。皆から「なんこう」と呼ばれています。今でこそ中高一貫校になって、進学実績も伸びていますが、当時は東大がせいぜい1人2人出るかどうかで、進学実績も大したことはなかったんですよ。
高校の特色?何だろう、フォークダンスが盛んだったかな。野球は強くなかったし……(笑)。われわれの世代はいわゆるベビーブームで、1クラス50名くらいで、それが11クラスもあったんです。中学は17クラスもありましたよ。まったく、すごい時代でした。
ただ、いわゆる浮ついた高校生活ではなかったですね。高校進学後も新聞配達は毎日続けていましたし、ヤクルトの配達もやったかな。小学生に週2回勉強も教えていました。横浜では港がありますから、夏休みには泊まり込みで、沖仲仕(おきなかし)という荷物の揚げ卸しをしていました。
晩ご飯を食べさせてもらったあと、夜6時くらいかな、自動車工場のある追浜などに向かうんです。船に積んだ車が揺れでぶつからないように、タイヤ同士の間に60センチくらいの突っ張りを入れるんです。切った角材に蝶つがいを入れてね。
私らみたいな小僧っ子は、突っ張りをかける大工さんを手伝うんです。そうすると、夜が更けてだいたい深夜2時くらいにマイクロバスに乗りこんで、簡易宿舎まで送ってもらうんです。その間は家に帰っていません。ただ、一緒に働いている学生がたくさんいたので、特別辛いと感じたことはなかったですね。
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