鹿島の社長が「横浜市立南高」に回顧する青春 家計を支える苦労はあったが周囲に恵まれた
高校生活は何が楽しみだったのかな……。部活は一時期バドミントンをやってたような。あ、サッカー観戦が好きでした。ただ当時うちにテレビがなかったんで、近所の子どもたちと大家さんの家に集まって、テレビでサッカーを観ていました。日曜日はダイヤモンドサッカーという番組とプロレスをセットに観るのが習慣でしたね。
こんな感じだから、一生懸命勉強したんですが、大学に受かりませんでした。まぁ当然ですね。ただ公立高校だったからかもしれませんが、篤志家(とくしか)というか、いろいろと面倒を見てくれる先生には恵まれました。友人もまじめな人間に囲まれて。今思い返せば、高校時代にグレる道もあったと思いますよ。結構際どかったですね(笑)。
浪人してからも、アルバイトは続けていました。浪人なのか労働者なのか(笑)。私立は当然進学できないので、国公立大学を受験したら、横浜国立大学に受かりました。ただ当時学生運動が盛んで、学校が閉鎖になってしまって。そこで改めて東京工業大学を受け直したら、何とか受かりました。
入学したのは機械工学科だったんですが、大学時代に超高層ビル建築に挑む映画を観るやいなや、心を奪われて建築学科に再入学しました。大学時代は奨学金をもらいつつ、週7件家庭教師をこなしていたんですが、新卒で入社した鹿島建設では初任給が大学時代の収入より3万円も安かった(笑)。3年経って、ようやく大学時代と同じ収入になりましたけどね。
故郷の再開発に立ち会う
思えば、横浜に人生というか、精神のすべてがありましたよ。横浜支店の配属になって、最初に手掛けたのが産業貿易センターというビルでした。シルクセンターというビルの裏手だったんですが、シルクセンターは鹿島建設が手掛けた英一番館という、横浜としても日本の建築としても記念碑的な建物なんです。だから横浜は私の鹿島建設としての生活が始まった地でもあり、歴史そのものでもありますね。
みなとみらいの再開発にも携わりました。(開発初期物件である)横浜そごうを建設している頃は、みなとみらいにはまだ何もなかったんですよ。当時は会社の人間から「お前ね、そごうの仕事が終わると、みなとみらい一帯の開発が始まる。(そこに携わっているうちに)建設業としての人生が終わるよ」って言われました。そこから支店長になるまでずっと横浜支店にいて、みなとみらいが今の姿になる過程を見て育ってきました。故郷である横浜の開発の歴史に立ち会えて、「建設業をやっていてよかったな」と思いました。
先日、たまたま私を含む南校11期生の集まりがあって、久々に顔を出しました。卒業からまったく会ってなかった同級生もいましたが、卒業から50年近く経っても、お互いすぐにわかるものですね。そうそう、南校の広報誌を見ていたら、「時間は有限だが打つ手は無限」という校長先生のお言葉がありまして。なかなか良いことを仰っていると思いました。(談)
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