「悲劇の甲子園優勝投手」嶋清一の悲痛な最期 戦争に人生を奪われた「伝説の左腕」
1940(昭和15)年、彼は明治大学に進学します。しかし、部内には後に巨人で200勝投手となる大エース、藤本英雄(1918~1997)が上級生におり、登板の機会はほとんど与えられませんでした。
また、練習の際には上級生の捕手が嶋に対し、構えたミットから外れる投球を捕球せずわざと後逸し、それを嶋に何度も取りに行かせるなど、ここでも「上下関係」の折り合いの悪さから、実力を発揮できませんでした。
学徒出陣で海軍に入隊
戦争の激化により、深刻化する航空兵と下士官の不足を補うべく、1943(昭和18)年にそれまで守られてきた文科系学生への徴兵猶予が廃止されます。嶋ら多くの学生も、「学徒出陣」で軍に入隊しました。
ありませんでした。当時は「総力戦」という、国民全員が戦争に協力する体制で、功績のある選手も例外ではありません。たとえば、東京巨人(現・読売ジャイアンツ)のエースとして活躍中だった沢村栄治(1917~1944)も出征し、のちにフィリピンで戦死しています。
野球に限らず、多くの優秀なアスリートたちが戦場に送られました。
1943(昭和18)年12月、海軍に入隊した嶋は、広島で新兵教育を受けたのち、横須賀の通信隊でレーダーに関する知識と技術を学びました。
そして、紀伊防備隊(和歌山県由良町)でレーダー監視の任務を行った後、1944年12月に、長崎で竣工したばかりの「第八十四号海防艦」に配属されました。
第二次世界大戦中に建造された、対潜水艦能力に特化した「小型」の戦闘用艦艇の一種で、沿岸警備や船団護衛などに使用されました。
嶋が乗った第八十四号海防艦は、高性能水中レーダー(三式水中探信儀)を搭載しており、嶋はこのレーダー要員に抜擢されたのでしょう。この艦には、対空用の高角砲や機銃のほか、潜水艦を攻撃する大量の「爆雷」も装備していました。
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