「悲劇の甲子園優勝投手」嶋清一の悲痛な最期 戦争に人生を奪われた「伝説の左腕」
1945(昭和20)年3月、第八十四号海防艦は、訓練もままならないまま南方に派遣されます。シンガポールから日本に向けて、国家の「生命線」でもあった石油等を運ぶ輸送船団「ヒ88J」の護衛任務のためです。
この頃には、日本軍の主力艦艇はほとんど壊滅し、南方からの物資輸送は非常に困難を極めていました。ヒ88J船団も例外ではなく、シンガポール出港直後から、米軍の空襲や潜水艦の雷撃等により、輸送船を相次いで失っていました。
そして3月29日早朝、輸送船が小型タンカー1隻となった船団がベトナム沖を航行中に米潜水艦に発見され、魚雷攻撃を加えられます。6時14分、船団の最後尾を航行する第八十四号海防艦に魚雷が命中。艦は瞬時に大爆発を起こして轟沈しました。
原因は弾薬庫の誘爆とみられ、海防艦の強みである大量の爆雷搭載がアダとなったのです。
乗員191人は「全員戦死」。かくして、かつて甲子園を沸かせた豪腕エース、嶋清一海軍一等兵曹は、南洋の海原に24年の短い生涯を閉じたのでした。
嶋の功績は未来永劫に
戦争が終わり、嶋清一の名は人々の記憶から長く忘れられていました。
しかし1998(平成10)年、第80回の夏の甲子園で、当時「平成の怪物」と呼ばれた横浜高校のエース松坂大輔(現・中日ドラゴンズ)投手が、嶋以来59年ぶりとなる決勝戦でのノーヒットノーランを記録すると、嶋の偉業が再び知られるようになります。
現在、東京ドーム(東京都文京区)にある野球殿堂博物館には、戦争で亡くなった中等学校・大学・社会人野球の選手167名の功績を称える記念碑「戦没野球人モニュメント」が設置され、嶋清一の名前も刻まれています。
今夏、100回目を迎える高校野球の歴史のなかには、嶋のように時代の波に翻弄された名選手たちがいたことも忘れてはなりません。こうした「日本史の悲劇」を学び、誰もが野球をはじめとするスポーツを心おきなく楽しめる「平和」について、あらためてかみしめる機会にしたいものです。
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