「悲劇の甲子園優勝投手」嶋清一の悲痛な最期 戦争に人生を奪われた「伝説の左腕」
3つ目の壁は「ケガ」です。連日の数百球に及ぶ投球練習から左腕の神経痛を発症。その痛みから本来の実力を発揮できず、初戦敗退した大会もありました。
非凡な才能がありながら、なかなか甲子園で結果が出せない嶋に対して、地元ファンなどから「もう嶋を登板させるな」などと、猛烈な「バッシング」が浴びせられます。これに心を痛めた嶋は、チームメイトから「自殺」を心配されるほどでした。
全5試合完封、2試合連続で無安打無得点
最上級生となり、捕手がおおらかな性格の下級生に代わったことで、のびのびと自分の投球ができるようになりました。
また、それまでスパルタ指導だった監督が軍に出征すると、新たに招かれた監督は「ミスを一切叱らない」対照的な指導で、選手たちのやる気を引き出しました。
嶋はこの新しい体制のもと、ケガの治療にも専念して、万全の状態で「最後の甲子園」を迎えることになったのです。
1939(昭和14)年の夏の甲子園で、155キロのストレートと垂直に落ちるドロップを武器に、決勝を含む全5試合を、相手に1点も与えず完封勝利(45イニング無失点)して、海草中を優勝に導きました。その内容も、全5試合で打たれたヒットはたったの8本、奪三振57(1試合平均11個)、外野に飛んだ打球は12本のみでした。
そして何よりの圧巻は、準決勝と決勝戦での「ノーヒットノーラン達成」です。その活躍は、当時「天魔鬼神の快投」と絶賛されました。2試合連続でノーヒットノーランを達成したのは、今年で100回を迎える甲子園の歴史のなかでも、嶋ひとりしかいません。
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