「お茶」と世界の歴史の意外にも深すぎる関係 アヘン戦争やアメリカ独立戦争の裏側にも

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中国では、チャは仏教寺院で盛んに利用されるようになる。唐代になると禅が盛んになる。座禅のときの眠気覚ましの薬として、チャが用いられる。

ただし、薬として飲むのであれば、煎じて飲むよりも、粉末にしてそのまま飲むほうがいい。そのため、宋代になるとチャの粉をお湯に溶いて飲むようになった。これが抹茶である。

この宋代に、日本からは中国の寺院に留学僧たちが学びに来ていた。そして、日本に帰国した留学僧たちは、チャの種子と抹茶の技術を日本に持ち帰った。特に臨済宗の開祖である栄西は『喫茶養生記』という書物を著し、広くチャを広めたため、茶祖と呼ばれている。

こうして日本の寺院でも中国に倣って抹茶が飲まれるようになった。

ところが、である。その後、本場の中国では「抹茶」が絶えてしまった。

時代は、宋代から明代へと移り変わっていった。

明の初代皇帝、洪武帝は、貴族や富裕層の飲み物であったチャを庶民に広めるために、手間を掛けて固形に固めることを禁止し、茶葉で簡単に飲むことができる「散茶」を広めた。そのため、中国では抹茶は廃れてしまった。

まさに、抹茶は日本に渡って生きながらえたのだ。そして抹茶は、日本のわび・さびと結び付いて「茶道」という独特の進化を遂げる。

この極東の島国で特異な進化を遂げた抹茶は、やがてはユーラシア大陸の反対側の西洋の島国にも影響を与えていくのだが、それはイギリスにチャが伝わる名誉革命まで待つことになる。

産業革命を支えたチャ

16世紀になり、ヨーロッパと中国の交易が行われるようになると、福建省の港から海路でチャが運ばれていった。福建省では「茶」を「テ」と発音する。これが、ヨーロッパでは「ティー」となった。

現代の工業化社会は、18世紀のイギリスでの産業革命に始まると言われている。

産業革命により生まれたのは、単に安価な綿織物という商品だけではない。

工場労働者という新しい階級が生み出された。この労働者たちが好んで飲んだのが紅茶である。

イギリスでは、赤痢菌など水が媒介する病気の心配があった。そのため、農業労働者たちは、水の代わりにビールなどのアルコール類を飲んでいた。

しかし、休みなく動く機械とともに工場で働く労働者たちは、ほろ酔いで働くわけにはいかない。チャは抗菌成分を含むので、十分に沸騰していない水で淹れても病気の蔓延を防ぐことができる。しかも眠気を覚まし、頭をすっきりさせてくれる。そのため、労働効率を上げるのに最適な飲み物だった。

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