原因がよくわからない「吃音」の不思議な現象 なぜ人は「どもる」のか?
「連発」を警戒するあまり「難発」が出るという話にはすでに触れた。ここで、難発は「症状」であると同時に、連発を防ごうとして出てきた「対処法」でもある、と捉えてみるとどうなるか。同じ現象でも、見方次第で「対処法」にも「症状」にもなる、つまりは「ダブルスタンダード性」が浮かび上がってくるのだ。
本書で数多く紹介される吃音を防ぐための工夫や対処法が、万能薬にはならない理由もこのあたりにある。冒頭で、口拍子のリズムに乗ることで言葉が紡がれていった例を挙げたが、こうしてパターンに乗っていく対処の仕方も、「話者の内面が感じられなくなる」という副作用、つまり「症状」と背中合わせなのだ。
「しゃべる」ということ
演技、音読、プレゼンなど、特定のシチュエーションではどもらなくなるといった大まかな傾向と、一方で個人差も大きいという話、「どもらなくなったことでかえって苦しくなり、再びどもれるようになる道を選んだ人」のような珍しいケースなど、思い込みがひっくり返されるような事例が随所に詰まっているので、ぜひ実際に手に取って触れてみてほしい。社会的にはハンディキャップとされるようなことでも、「症状」ベースで理解しようとすることからいったん自由になれば、本当に色々な見方が可能になる。読後には、自分の視点が確かにアップデートされているのを感じるはずだ。
この「アップデート」は、吃音への見方が変わるといった次元にとどまらない。「しゃべる」ってそもそもこういうことなのかも、という自己発見に満ちている。本書の底にあるのは、「しゃべる」ことについて、知らず知らずのうちに積み上がってきた自分の中の感覚が自然と総動員されて、かつ更新されていく面白さだ。
話し方のパターンに乗っかり過ぎて内面が伝わりにくくなる(パターンに「乗っ取られる」)ことは仕事の時など心当たりがあり過ぎて読んでいてむずむずしたし、同じ「しゃべる」にも卓球のラリー的な「会話」とキャッチボールのような「対話」と、複数人ならばサッカーみたいにパスを回す、いや、ドッジボールみたいに内野と外野があって……みたいに読みながら考えが勝手に歩き出す感じが楽しい。
啓蒙っぽくない、と始めの方に書いた理由はここにある。開かれた触媒のような本なのだ。各地で開かれている本書のトークイベント、もとい座談会が盛況だというのも頷ける。当事者の語りと著者の筆致に触発されて、自分の中の「しゃべる」が顔を出す。
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